A逆にこの法則をこの諸々個々の事象に当て嵌める時には、もはや単なる反覆などではあるまい。そこでE・カッシーラーは、法則とこの個々の事象との関係を、関数とその変数がとる個々の数値との関係として理解しようとする。一定の曲線を表わす関数はこの曲線の個々の点に就いて、単に自らを反覆するのではない。この曲線のカーヴ・トレーシングから考えて見れば判るように、法則たる関数は、個々の事象に相当する曲線上の(恐らく連続した)諸点を、次々に描き出し、生産[#「生産」に傍点]して行くのである。自然科学に於ける法則をば反覆する共通者であるかのように考えて片づけて了ったリッケルトは、発達した現代自然科学のこの法則の観念(関数概念)を知らないのだ、とそう批難するのである*。
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* E. Cassirer, Substanzbegriff und Funktionsbegriff.――従来の自然科学は何等かの実体[#「実体」に傍点]を中心として方法が成り立っていた。現代はその代りに関数[#「関数」に傍点]関係が用いられる。例えば因果法則も時間の変数を含んだ関数としての性質を持つ、という。
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カッシーラーの批難は、自然科学に就いてのリッケルトの認識不足を指摘する点では、多分或る意味に於て当っているだろう。そして実際、リッケルトは自然科学に就いて彼が発見したこの方法の規定を、ダイヴィング・ボードとして、その対立物の歴史学(文化科学)の方法を規定したのだったから、その限り、之は歴史学方法に就いての彼の認識の不充分さに対する、間接の批難にもならないではない。――だが独りカッシーラーに限らず、H・コーエンもP・ナトルプも、彼等自身、文化の科学に就いての見解は決して卓越したものではない。少くとも彼等の自然科学、特に精密自然科学、の科学性を科学一般[#「一般」に傍点]のイデーにまで押し及ぼそうとする立場からは、リッケルトが文化科学を文化価値に関係づけようとした意図は、決して理解されないし、まして征服され得ないだろう*。
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* なおW・ディルタイの系統にぞくするM・フリッシュアイゼン・ケーラーによる批判があるが(〔M. Frischeisen−Ko:hler〕, Wissenschaft und Wi
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