_]であり、リッケルトによると異質的[#「異質的」に傍点]で区画のない連続[#「連続」に傍点]である。そこで例えば認識のために与えられたこの材料からその異質性と連続性とを取り去って、等質的な断続的なものを拵え上げて見ると、それは一二三……というような数の世界(一種の数学の対象)となるだろう。今は併しそれはどうでもいいので、必要なのは、そういう風にしてこの海のものとも山のものともつかぬ与えられた認識材料を、適当に[#「適当に」に傍点](どういうことに対して適当にであるかは別にする)加工[#「加工」に傍点]して、この内容に一定の形式・形態を与えた上でなければ、夫が一定の認識の対象にはならない、という点である。この形式・形態の与え方、即ち素材加工の手続きが、やがて科学の方法[#「方法」に傍点]というものだというのである。かくて一定の方法が一定の対象を産むのであった。
この方法には併しながら、今の場合ただ二つの場合しかあり得ない。例の素材に固有な異質性と連続性との内、前者を捨て去るのが「自然科学」的[#「的」に傍点]方法であり、之に反して後者を捨て去るのが「文化科学」的[#「的」に傍点]方法であるという(両者とも捨て去れば全く形式的な科学である数学しか残らない)。即ち自然科学的方法による科学の対象は、等質的で連続的な形式を持っており、之に反して文化科学的方法による科学の対象は、異質的な不連続的な形式を有つという結果になる。そこでリッケルトは、便宜上、逆に[#「逆に」に傍点]、前者のような方法を採用する気になった方の諸科学を一般に[#「一般に」に傍点]「自然科学」、之に反して、後者のような方法を採用したいと思う方の諸科学を一般に[#「一般に」に傍点]「文化科学」、と定義する。本来の自然科学や実験心理学は、前者にぞくする代表的な科学で、歴史学は後者にぞくする代表的な科学だということになる(例えばよく使われる精神科学[#「精神科学」に傍点]という言葉は、だから不用であり又は妨害となる。それに代るものが文化科学の観念なのである)。
無論どちらの定義にもあて嵌らない中間領域にある科学は、沢山ある。だがそれは別にこの考え方の不当を証明するものではない。それよりもこの考え方の効用は、普通その性質がハッキリ甄《けん》別出来にくいような諸科学を、この方法のクリテリウムにかけてハッキリさせ
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