Eロッツェの『形而上学』(実はヘルバルトに由来する)であった。哲学は形而上学として復興されるというのである。恰も今日の新ヘーゲリヤンのように。フォイエルバハの唯物論は云うまでもなく、之に反して、哲学を唯物論として「救済」したのであるが。
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 現代のように諸自然科学・社会・歴史・文化・精神・諸科学が、夫々のコースに沿うて、一応独立に而も相互の紛糾した錯綜に於て、発達し又発達のテンポを速めつつある状勢にあっては、科学なるものを一般的に、そのものとして一纏めに、テーマとすることは、極めて困難だと云わねばならぬ。だがそれだけに又恰もその企てが要求されざるを得ないということも真理だ。そこでこの錯綜を整理整頓する仕方の何より手近かなのは、云うまでもなく之を分類[#「分類」に傍点]することだ(Divide et impera――分割してから支配せよ)。――処が分類には分類の原理[#「原理」に傍点]がなくてはならぬが、恰も科学の方法[#「方法」に傍点]こそがこの科学分類の原理とならなければならぬというのが、今日の所謂「科学論」の立場に立つ人々の与える処の結論なのである。こうして今日の所謂「科学論」は所謂「科学方法論」をその中心課題とすることになった。

 併し広範な意味に於て科学論と呼ばれるべきものも、又科学方法論と呼ばれるべきものも、そうだったように、科学の分類という興味は、云うまでもなく古来から存する。之は何も近代になって初めて特別に重大性を認められたテーマではない。私はすでに拙著『科学方法論』(岩波書店――続哲学叢書の内〔本巻所収〕)に於て、科学分類の仕方そのものの分類を与えたから、今ここに夫を繰り返すことは避ける*。ここではただ、次のことだけを付加して注意を促しておきたい。と云うのは、科学分類というこの問題は、恐らく往々そう想像されるような、ペダンティックで教科書風に退屈な、或いは概論的に皮相な、興味からばかりテーマにされて来たものではない、ということである。科学の分類の必要を切実に感じ取った時代には、殆んど必ず、そこに何か新しい科学乃至学問のイデーが潜んでいる。或いは同じことだが社会に於ける科学の地位と役割とが新しく問題にされているのである。
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* 私の書物では、この部分は主に R. Flint, Phi
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