lである。その『論理学』に於ける諸科学の比較研究――科学の分類[#「科学の分類」に傍点]――は一応尊重に値いする。
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 この意味に於て注目すべきはK・ピアソンの『科学の文法』(K. Pearson, The Grammar of Science, Part I. II., 1911)である。マッハの認識理論の系統を引く彼は、ヴントなどとは異って、イギリス風に消化された思想と表現とによって、この科学概論[#「科学概論」に傍点]を書いた。彼は統計学者で又物理学者である。
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 で、科学論乃至科学方法論は、単に十九世紀後半以来の自然科学の急速な発達に俟つだけでは充分ではなかったので、更に諸自然科学の比較研究[#「比較研究」に傍点]、特に歴史科学乃至社会科学と自然科学との比較研究、の関心に俟たねばならなかった。そしてすでに述べた通り、之は、自然科学の科学的イデー・科学性と哲学の夫との比較研究、或いは寧ろ、実証的な自然科学の席巻からして如何に哲学という教授職の糧を護るかという関心とさえ、関係があったのである。嘗てヘーゲル哲学体系の崩壊直後、哲学は到底理論体系としては成り立ち得ないと考えられたように、一頃、歴史学は果して科学であるかどうかということが、真面目に疑問にされたこともあったのである*。こうした、諸科学一般の比較研究、そして科学の分類[#「科学の分類」に傍点]なるものが、改めて近代的な興味の中心を占めるようになって来た。之によって諸科学は、そのものとして一纏めに、哲学者や哲学者上りの理論家にとって、独自の[#「独自の」に傍点]、往々にして諸科学の実際的な実証的研究から孤立さえし兼ねない、流行の一テーマとなって来た。近代的な所謂「科学論」乃至「科学方法論」(リッケルト・コーエン・ナトルプ・ディルタイ・其の他)はここに成立したのである。
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* ヘーゲル学派の右翼が神学的形而上学へ赴き、左翼が神学批判と唯物論とへ赴いたに対して、中央派は哲学史[#「哲学史」に傍点]の構成に向った。蓋しK・フィッシャーやツェラーやE・エルトマン等によれば、哲学は体系としては破産したのであって、ただ歴史[#「歴史」に傍点]としてのみ成り立つことが出来る。哲学体系をこの破産から救済しようというささやかな努力は、H
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