、必要に応じていつまでも実証的に検証され得る可能性をもち、即ちまた合理的な根拠が用意されている、という条件を必要とする。
 福本氏の場合の、権威(?)の引用が何を意味したかを、今ここで議論する心算はない。問題は引用にあったのであり、それが氏の場合には公式としての引用であった。公式としての引用は勿論科学的に有益なもので又不可欠のものだが、夫が非科学的引用に終る二つの危険がある、というのだ。というのは所与を引用された公式へ還元して了うこと、即ち又公式の無用な反覆ということと、神様としての公式のかつぎ出しということとにあるのである。
 コケおどしのために世俗的な「権威」者の言葉を持ち出すことは、すでに論外で、公式としての引用のうちには数えられない。自分の言葉の不足を権威者のあれこれの都合のよい片言を以て補い、それによって権威者の言葉そのものでなく却って自分自身の言葉に権威をのり移らせるのは、作文上の「神仏の勧請」であって、科学的には全く馬鹿げたことだ。無用な装飾として引用をつけるのは、そうしないと論文にならないと思ったり何かすることは、もはや話しにならぬ。「如何にマルクスを引用すべからざるか
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