にはそれがその場の必要に応じていつでも実証的に検証・証明・され得るという場合であり、二つには公式が成立するまでに蓄積された認識の体系が歴史的陶冶に耐えて来たという自他の承認がある場合であり、三つには夫が世間の信用を博して世俗的な権威を生じている場合である。処がこの三つ目の権威なるものは、世間的に意味はあっても、科学的にはあまり意味がないばかりでなく、往々有害でさえあるのだ。神様の出現は、文化のどこの領域に於ても、科学的には有害な性質を持っている。で公式としての引用が、神様の引用であり、世間的俗習を手頼りにする引用なら、この引用は科学的ではないことになる。前例や範例が世間的には認識の決定者の一つの要素ではあり得ても、合理的にはいくらでも疑われ得るのには、理由があるので、ここにすでに伝統というものに就いての伝統主義的態度と批判的態度との区別も顔を出すのだが、その問題は別にして、とに角この「大審院的判例」は、それ自身は科学的な引用には値いしない。抑々科学的な合理性を守るためにしか、之に対する反対を封じる意味でしか、大審院的判例は科学的引用を許されない。判例は単なる権威ある前例としてではなくて
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