解釈する自由な解釈の哲学=体系的なフラーゼオロギーとなるもののことである。之は今日の日本の自由主義・文化的自由主義・の哲学的支柱の一つともなるものであり、そして夫故に又更に、日本型文化ファシズムの支柱ともなるものだ(その点日本にだけ特有な現象ではないのだが)。
文献学という科学は、云うまでもなく立派な科学である。それは歴史科学の絶体不可欠の認識手段である。もう少し広く理解すれば、夫はアカデミー的学殖をさえ意味する。そういう点から私は文化の思想水準と文献学的水準とを区別出来るとも思う。文献学的レベルは専門技術的な水準を意味する、特に広義の文学的学科に於てはそうだ。だがそれにも拘らず、文献学の哲学的世界観的拡大としての文献学主義に現われる処の、云わば文献学[#「文献学」に傍点]精神=フィロロギー精神は、もはや科学的精神ではない[#「ない」に傍点]。もし評論などに於ける文学的精神がこの文献学精神を出ないなら(文学=リテラチュア=文献)そういう文学的[#「文学的」に傍点]精神は正に科学的精神の正反対物だということを、記憶せねばならぬ。
日本の文化常識では、科学というと自然科学のことだと思
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