んでは、外国文化と日本的現実とのつき合せに、著しく混雑を来すことになる。で、或いは外国文化は西欧精神というようなエキゾティックなもので、従って日本精神とは凡そ別なものだとか、科学はヨーロッパのもので日本には不向きであるとか、云うかと思うと、今度はドイツ=ロマンティクがいつの間にかそのまま日本ロマン主義になっていたりするのである。
ジードを「古典」のように「文献」のように読んだ人達は、やがて同じ調子で古典や文献のようなものを、日本の伝統というようなものに見出したくなるのは自然だ。そして伝統の内に――万葉や源氏をひもとく場合だ――却ってエキゾティックなものを見ようとさえするのが、今日の文化的伝統主義[#「主義」に傍点]の特色の一つに数えられるだろう。この不思議は全く、引用の精神、文献の物神崇拝、の無躾けなのさばり方[#「のさばり方」に傍点]から来る必然的な結果に他ならぬ。
引用精神・文献精神・が、足下の現実について、本来の意味での実証的精神の規格を守らない場合、どういう誤りに陥らざるを得ないかが、これで判るだろう。元来文献精神・引用精神・は、文献学上の実証精神に基く筈であった。処がこの
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