る美文(ベルレートル)にしか過ぎない。それは先から云っている経緯上、避け難い結果で、必ずしもこの種の評論家の趣味の不健全や能力の制限からばかり来るのではない。今日新しい評論が現実的ではなくて回顧的・復古的・だと云われる現象は、決して偶然ではないので、夫には認識論上の深い根柢があるのである。曲者は古典[#「古典」に傍点]その他の文献[#「文献」に傍点]の引用の精神[#「引用の精神」に傍点]の内にあったのである。
処が引用の精神は単に回顧的・古典的・文献についてだけ発動するとは限らない。之は一般に認識上のエキゾティシズムとも云うべき、一種の距離感に発するとさえ云っていいようだ。回顧は時間的距離感に基くが、空間的距離感に基くものが外国文化摂取の際往々にして現われる。日本のインテリで邦語の出版物は日常の消耗品のように読む人でも、外国語の書物を何等か古典のように「文献」として読む人は多くはないのか。そこにおのずから、無用な引用の興味も起りかねないのだが、併しそれはまだいいので、ただの引用ではなくて外国文化を引用するという引用の精神[#「引用の精神」に傍点]そのものがインテリの精神の糧となるに及
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