ていい人間がどこにあるだろうか。人間性と文化とは直接に一態である。だから科学の文化上の観念は、正に素人観念でなくてはならぬ、ということになろう。文化ということは率直に云えば、つまり本当の常識ということである。
そればかりではない。科学は全く民衆のものでなければならぬ、というのが、今日の要求である。文化というからには、又政治と云うからには、民衆のものであるのは当然だからである。科学が日常生活に食い入らなくてはならぬというのは、科学が専門家の専有物や、専門家からの天下りの物だということの反対で、つまり科学は素人自身の産むべきものだということだ。して見れば科学という観念は、素人のものでなくてはならぬ。素人の自主的な観念の筈である。
こう考えて来ると、科学というものが何か、ということは、科学専門家の上からの指令で決まるのではなくて、一般世間人の良識が夫に対して発言権、否、決定権をさえ有っている、ということになるだろう。多くの反対もあると思うが、私はとに角そう云っていいように考える。多くの反対は、結局、常識というものの果している役割をあまりよく反省して見ない処から来るのである。つまり民衆とか、文化とか政治とか生活とかいうものを、科学につけてあまり反省して見ない点から、来るらしく思われる。
さて、科学とは何か? である。之は科学の専門家にきいても、必ずしも権威あるものではないという結論だった。すると、吾々一般世間人自身が、今から改めて(専門科学者の専門的研究ににらみ合わせながら)、省察し、つき止め、構築して行かなければならない根本理念の一つであるということになる。「科学」という観念は、まだ既成品としては与えられていない、ということをまず反省して見なくてはならぬ。科学的であるということが何かは、極端に云えば、大方の科学者や科学論者や科学主義者に、判っていない。
理論的乃至論理的なことをそれだけで科学的だと考えている人もいる。然らばスコラ学は最も科学的であろう。体系的ということで科学的の代りになると云うか。然らば一切の法律は科学的である。方法的であることか。では囲碁は科学であるのか。
一般化が科学的か。未開人は一切の不幸を悪魔の仕事として一般化している。因果的説明によることが即ち科学的であるのか。因果律や説明という問題については多くの論証が今日では必要になる。予見し得ると
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