科学と科学の観念
戸坂潤

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【テキスト中に現れる記号について】

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(例)分科の学問[#「学問」は底本では「学門」]
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 現在の時局は、文化の観点から云えば勿論のこと、文化以外の観点である軍事や生産技術の観点から云っても、科学の時代である。科学という観念が、尊ばれ流行し又親しまれている。科学という字が読書氏や政客や為政者の身近かに、或る関係を持つものとして現われて来た。曾て「文学する」という云いまわしが文壇の若い層で、短い時間口にされたことがあるが、今日では「科学する」という云いまわしさえ現われている。いやすでに「哲学する」という言葉もあったから、あまり不思議がることはないのである。科学という字は、分科した学問という意味を有っていたと思うが、この成語の名詞が動詞となったことは、大変面白い。
 けれども今日の科学崇拝は、一体何を崇拝しているのであるか。云うまでもなく科学を崇拝しているのである。だが一体科学とは何であるのか。但しそう云っても、私は科学概論や科学論の上での一定の立場を尋ねているのではない。一体科学に対してどういう見当をつけているのか、この常識は? と云うのである。
 一般の世間人は科学にたいしては素人である、素人の他に専門の科学者がいる、と考えられている。それはその通りである。だから専門家である科学者から科学を教えて貰えばよい、科学とは何かということも専門科学者に聴けばよい、と考えられている。それも一応はそれでいい。吾々は原子や原子核の性質についてはその専門の物理学者に聴かない限り全く見当もつかない。遺伝の事実については専門の遺伝学者に教えられない限りは危険でさえある。そしてそういう専門の知識を全く欠くなら、今日の科学の現状を知っているとは云えない。今日の科学の現状を大体知らないでは、科学とは何かということも判らない。
 併し又、科学者なるものは、言葉通り分科の学問[#「学問」は底本では「学門」]の専門家であるということも忘れてはならないのである。科学者は自分が専門とする対象の研究に精通しているだけ、それだけ専門の知識に対しては慎重である。之は良心的なことなのだが、併し、慎重ということが、専門外のことは之をその専門家に一任して省ないという一種の責任のがれを意味するなら、それは却って人間的慎重さ
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