ものでもあり、素人は政治上の発言権を何かの形で必ず持っているのである。之はあの漫画化された「自由主義」や「デモクラシー」でなくても、そうなのだ。政治は悪い意味に於てさえ、常識のものとされている。科学についても、政治のように云えるかどうか、という問題が起こるのである。
もし科学は政治などと違って、そういう素人観念にぞくしてはならぬもので、専ら専門観念のものだとすれば、今まで説いてきた常識(素人の良識)というものは、科学という観念について何の発言権もないことになる。またもしその反対ならば、仮に科学の一つ一つの旧い又新しい知識やプログラムについては別としても、科学とは何かという科学の観念は、常識からの発言権に俟つ処が、多大でなくてはならぬことになる。
処で、現下に於て、科学が要求され尊重され愛好され、云々、しているのは全く一つの社会的要求からである。科学の偉力を示すものは科学自身でしかあり得ないが、科学の必要を説くのは決して科学自身ばかりではないのだ。社会が科学の必要を説くのである。科学自身をして科学自身の必要を説かしめるものも亦実は主として、社会なのである。之は正に、政治的な観念として、今日提出されているのだ。科学という観念が(科学内容の夫々ではない)政治的な観念となる、またなっている、ということには、語弊もあり又事実上の弊害をも伴うかも知れないが、併し何と云っても之は科学そのものを発達させる社会的な動力になることは明らかなのだし、科学とは何か、という科学そのものの観念の本来の所在を突き止めさせるという必要は好い性質をも持っている。
科学が政治と同様に専門観念ではなくて素人観念らしいということは、之だけで略々見当がつこう。カントは進歩的な哲学は、「学校概念」によるべきではなくて「世界概念」によるべきであると云ったが、科学というものについても亦、世間的[#「世間的」に傍点]観念が支配することが、進歩的であるように思われる。
この説明で不満ならば今日科学は、ただの科学として持ち出されているのではなくて、全く文化問題として持ち出されている、という点を私は注意したい。元素の人工破壊も、「科学とは何か」という設問では、物質観の進歩、新エネルギー源の着想、等々という人知の発達、社会厚生、其の他其の他の問題である。それは思想や社会の事件である。処で一体、文化に対して素人であっ
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