カントと現代の科学
戸坂潤
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【テキスト中に現れる記号について】
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)思想家[#「思想家」に傍点]であった
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J. v. Kries の『カント、及び現代の自然研究に対するカントの意味』の要領を紹介して見ようと思う。之はカント二百年記念に際して出版されたカント文献の内でも偉出したものの一つに数えられそうであるが、論じられた諸問題には豊富な内容的知識が含まれていると共に吾々にとって寧ろ興味ある種々の疑問が無くはないかと考えられる。私は之に対して批評を下すことは敢てしないがその代り之を出来るだけ簡単に要約して読者への問題としたいと考える。
一 自然研究家としてのカント
カントは独り哲学界に不朽の功績を残したばかりではなく自然科学者としても重大な位置を占めるものである。その最初の論文「活力の真の計算の考え」はデカルトとライプニツとの相反発すると考えられた二つの見方に就いて論じたものであるが、其は独自の思想という点に於けるよりも寧ろ厳密な鋭利な或いは煩瑣とも云うべき批判の傾向と能力とを示したという点に於て価値があるであろう。之に反して「地球の回転は時の経つに従って其の速さを変えるか」に就いてのベルリン・アカデミーに提出された懸賞論文はカントの独創的天才を示すものである。カントによれば月及び太陽の引力によって引き起こされる潮の満干の運動が地球の回転の速さを緩める事が明らかとなる。たとえその計算があまり厳密ではなかったにしても、又たとえ速さがこの外の更に多くの原因によって緩まるということをカントは注意しなかったにしても、カントが簡単な疑うことの出来ぬ力学的関係の考察から出発したという点での此の論文の価値は依然として変るものではない。さて自然科学者としてのカントをして最も有名ならしめるものは「一般自然及び天体論」に述べられた所謂カント・ラプラス仮説である。凡ゆる遊星は略々同一平面の内に同一の方面を以て運動し太陽も又この平面に垂直な軸の回りを同じ方向に回転するが、カントによればかかる偶然とも云うべき一致は太陽と遊星とが本来空間に拡っていた同一の物質であり、後に至って始めて分離したものであるということを示すに外ならない。勿論カントが太陽系の成立を説明して引力と排力とが密度の大きい多数の塊を造り同時に又全体に回転運動を与えるとしたのは誤りである。後者は力学上不可能でありラプラスの如きは回転運動は始めから与えられたものと見た。併し此の点を除いてはたとえ今日に至るまで天体の発達史の確実な見方が得られないためにこの仮説が如何なる範囲に於て正当であるかを決定することは出来ぬとしても、この仮説の核心そのものの正しい事は疑うべくもない。風の理論其の他に関するカントの仕事を数え尽すことは茲では不可能であるであろう。ただ最後に生物界に就いての研究を一言しなければならぬ。カントは嘗て有機体の形態が不変であるか変化し得るかの問題を考察したことがあるがそれは「種々なる人種に就いて」にも論じられてある。又後に至って今日の進化論の思想を単に漫然とではなく実に疑う余地のない程明らかに述べている。ただそれがあまり知られないのはカントがこの問題を独立に論ぜずただ判断力批判の処々で触れているに過ぎないためでもあろう。何れにしてもカントの自然科学上の仕事の特徴を明らかにすればそれは彼が主として思想家[#「思想家」に傍点]であったという処にある。而も彼は与えられたる事実を鋭利に確実に追求する思想家であるばかりではなく又自由な創造の想像力によって広範な世界に住し既知のものから前人未発の真を見出して科学の研究に新しい刺戟を与える底の思想家であったということにあると思う。
二 カントの数学の説
カントの最も一般的な思想の一つは吾々の精神生活の内に這入る凡てのものは吾々の意識[#「吾々の意識」に傍点]の内に与えられねばならぬということである。「主観性」とは之である。然るに吾々の意識の見渡し得ない程の多様の内吾々の知覚の或る特殊のものは常に不変であり、経験の或る特徴は必然性と厳密な一般性とを持っている。さて感性知覚の空間的な形式は之に属するものであり、カントはまずかかる意味に於て空間はアプリオリな必然的表象である[#「空間はアプリオリな必然的表象である」に傍点]という。吾々はかかるアプリオリをアプリオリの概念の心理発生的解釈[#「アプリオリの概念の心理発生的解釈」に傍点]と呼ぶ。併しこのアプリオリテートを個々の対象が互いに順序づけられて現われる方即ち視覚の optische Lokalisation と考えるならばヘルムホルツがカントを攻撃したようにかかるアプリオリテートは明らかに否定されねばならぬ。吾々の今アプリオリテートと呼ぶものは之とは異って一般に感性的知覚は空間的な形式をとるという意識の性質、即ち空間表象は始めから与えられた不変な意識内容を表わす[#「空間表象は始めから与えられた不変な意識内容を表わす」に傍点]ということでなければならぬ。併しカントのアプリオリは単に之だけでは尽されない。寧ろ多くのカント学徒によればカントのアプリオリ説は心理発生的な意味でのアプリオリではなくして論理的な[#「論理的な」に傍点]関係を取り扱うものなのである。吾々の知識の種々なる部分の間にその妥当の論理的な関連[#「妥当の論理的な関連」に傍点]があるということを主張するものなのである。それ故ある命題に論理的なアプリオリテート[#「命題に論理的なアプリオリテート」に傍点]があるとはそれが経験の特殊の内容から論理的に独立でありその妥当が経験内容に依らずして他種の明白さを持っている[#「経験の特殊の内容から論理的に独立でありその妥当が経験内容に依らずして他種の明白さを持っている」に傍点]ということである。かかる意味でのアプリオリに解すればもはや概念や表象のアプリオリテートなどとは云うことは出来ない。論理的アプリオリテートはただ判断に就いてのみ云い得ることである。それ故ただ空間に関する[#「空間に関する」に傍点]一定の命題[#「命題」に傍点]即ち幾何学の公理のみが論理的アプリオリテートを持ち得る筈である。そしてこの公理の持つ明白さは空間表象の性質そのものに基く明白さなのである。それ故この場合の判断は、分析的ではなくして、Reflexionsurteil と謂われるであろう。吾々はかくして空間表象のアプリオリテートの二種を厳に区別せねばならぬ。
空間表象と同じく時間表象に就いても継起するものから区別された時間的な規定[#「時間的な規定」に傍点]、あらゆる出来事の不変な基礎となる時間のアプリオリテートを考えることが出来る(心理発生的)。それと共に又経験の特殊な内容から論理的に独立な命題を考えることも出来る。勿論この命題は分析判断と呼ばれるものではなくして時間表象の特殊の性質にその基礎を得る反省判断である。例えば過去と未来への無限の同様な拡りとか、それが完全に同様な部分から成立しているとか、はそれである(論理的)。
数の表象に就いては数はまず第一に固定した与えられた意識内容であり数えられるものの内容と共に変り得ないものである(心理発生的)。次に数論の公理的な基礎と雖も数の間の関連と関係との云い表わし即ち反省判断と見られねばならぬ。例えば[#ここから横組み](a+b)+1=a+(b+1)[#ここで横組み終わり]という命題は順次の関係と同等の関係との関連を云い表わすものである(論理的)。ジョン・スチュアート・ミルの如く数論の命題をば実在界の対象を数えることから帰納的に一般化された経験の成果と見るのも、多くの人々のなすようにそれを純論理的な性質に基くとして分析判断の特殊の形と見るのも、数論の論理的な基礎が数の表象それ自身とその心理的な性質との内に求められねばならぬことを忘れた点に於て不当であると思われる。
既に述べたように感性知覚が感覚とかの不変なる表象(数、時間、空間)との総合を意味する以上数学が一般にかくの如き反省判断であるならば、数学の対象たるかかる不変の内的関係及び関連は凡て知覚に適応せねばならぬことは明らかである(カントが数学は経験[#「経験」に傍点]を支配するという時、カントは実は経験と知覚とを相即しているのであるがこの相即は少くとも疑問でなければならぬ)。
カントが「外感」の形式と呼ぶものは感性知覚が常に空間的な関係に於て与えられるということを意味するのであるがそれには未だ個々に就いて知覚の空間的な順序[#「知覚の空間的な順序」に傍点]が何であるかは考えられていない。直接に与えられたる空間関係の知覚は考えられていない。今カントにこの点を感覚生理学の立場から補うならば、直接に与えられたる知覚の形式としての空間及び時間と、所謂客観的に現実されたる実在の表象乃至思惟[#「客観的に現実されたる実在の表象乃至思惟」に傍点]としての、終局的な思惟上の[#「思惟上の」に傍点]実在認識の形式としての時間及び空間とを区別し得るであろう。カントは知覚の感覚生理学的内容をその考察の内に入れる機会を持ち得なかったが故にこの両者の区別を明らかにすることが出来なかったと云わねばならぬ。而して一般にかくの如く直接の知覚と区別されたる終局的に思惟されたる[#「終局的に思惟されたる」に傍点](客観的に実現されたる)ものによって実在認識の全体的な形式「全体的な世界形像[#「全体的な世界形像」に傍点]」が成立するのである。而して実現されたるものとはある一般的な合法則性[#「合法則性」に傍点]に対応するものを云うのである。それ故実在の認識とは事実上与えられた体験を合法則的に順序づけられた全体の一部分として云い表わし又理解するこの「全体的世界形像」のことに外ならぬ。それ故吾々が感覚生理学の事実をとり入れる時カントの空間及び時間の思想の上に立ちながら吾々はカントの説を超えて行かねばならぬものである。
理論物理学の基礎と考えられる「物理学的世界形像」は感覚の機能の特殊の性質を顧ない点に於てカントの考えと全く同様である。それはたとえ知覚の直接の結果と客観的に現実されたる者との矛盾即ち錯覚の如きものがあるということは認めるにしても、なお外的関係がある見方では特に又空間的な順序の或る関係は吾々の感能によって、直接に知り得る[#「直接に知り得る」に傍点]と考える。併し元来外的関係に対して吾々の知覚は決して充全であるとは考えられない。「連続の関係」やそれに基く測定と雖も絶対的に充全であり得ないということは少くとも正確さの「閾」なる感覚生理学上の事実から見ても明らかであろう。それ故吾々はかかる外的関係を直接に[#「直接に」に傍点]認識することは出来ない。ただ出来るだけ[#「出来るだけ」に傍点]正確に認識し得るというに過ぎない。それ故物理学のかかる世界形像はなる程実際上には何の危険も含まないという点では許され得るにしても終局的な充分な見方とは云われない。観察に基く全経験認識の論理的基礎を厳密に論ずる場合はそれ故常にかの「全体的世界形像」の考えに還らねばならぬであろう。さてヘルムホルツの如く Gleichkeit と physische Gleichwertigkeit と解してのみ吾々の経験認識に対してその意味を見出し得ると主張する自然科学的空間説は空間表象の心理的性質を忘れた点にその誤謬の源があると思われる。実在する対象の合同を云々する時物理的な合同の外に尚何物かが考えられていると云うにしてもヘルムホルツによればそれは「認識し得るもの」に就いては何の変りもないと謂うのであるが、併しこのことは合同の概念に物理的合同以外のある他の意味があるということを否定することにはならぬであろう。自然科学的空間説を困難ならしめるものは空間表象[#「空間表象」に傍点]が何等固定した完結した者を意味しないという事実である。それ故観察すべき出来事を理解するには吾々は実在界
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