の空間的な表象を全然捨て去って全然抽象的な数学的な形式に拠らねばならぬ[#「空間的な表象を全然捨て去って全然抽象的な数学的な形式に拠らねばならぬ」に傍点]。かくしてのみ吾々は真に終局的な実在認識としての「全体的世界形像」に到達し得るのである。然らば時間表象はどうであるか。物理的世界形像が仮定する処の吾々は外界を直接に認識し得るということから、自然科学は認識に現われないものを取扱うことは出来ぬということが引き出されるのであるが相対性原理は正に之によって成立する。而してミンコーフスキーは抽象的な四次元座標をとって三つを空間に一つを時間に配した。即ち之によれば世界形像から時間表象が除外されて抽象的な軸によって置き換えられるのであるからそれは恰も吾々の主張に一致するかの如く見えるであろう。併しカントも云う通り時間は外界の関係が与えられる形式であるのみならず心理的体験の形式である。それ故時間そのものを含まない物理的世界形像はなお断片又は部分に過ぎぬであろう。ミンコーフスキーの世界は終局的な全体的な世界形像とは考えられないと思う。それ故又併し時間表象は世界形像から或る範囲に於て[#「或る範囲に於て」に傍点]除かれることが出来るということは謂われ得るであろう。之を要するに吾々の実在認識の最高課題は事実を統一する合法則的な順序を見出すことである。即ち一般的な命題を見出すことである。而もかかる一般的な命題はただ吾々が全体的世界形像と呼ぶ処の、実在の関係をある一定の「概念的な材料」の内で考えることによって始めて可能である。即ち空間表象や又はある範囲では時間表象を除き去った客観的に実現されたものとしての時間及び空間からなる処の時空世界形象によるのでなければならぬ。而もかかる時空形象は座標と云うが如き抽象的な概念によって置き換えても何の変りもある筈はない。それ故実在は厳密に数学的な概念によってのみ理解し得るであろう。
 カントが時間及び空間を吾々に固有な性質によって与えられた表象形式でありそしてそれに特有の性質によって一義的な必然的に明白な命題が成立すると説いた事は反対すべくもない。併し近代の科学に於て変更された処は実在的[#「実在的」に傍点]な対象の空間的な秩序や実在的[#「実在的」に傍点]な出来事の時間的な秩序を認識する仕方にあるであろう。即ち相対性原理の教えるように吾々は客観的に与えられた関係を直接に知り得るのではなく有限な速度の光線を介して認識するのであるが之は従来の実験物理学の信念と相容れない処であろう。併しカントの精神に従って築かれたる認識論によれば客観的な関係の厳密な意味での直接な認識はあり得ない。それ故此の変更によってカントに基く認識論は少しも動揺するものではない。ただカントは吾々の空間的な知覚が個々的に如何に決定されてあるかを問題としなかったまでであり吾々はただ之を補えば足りるのである。之に反して物理学の最近の発展は実在の思惟の形式から空間表象を又ある範囲では時間表象をも除き去って抽象的な或いは間接的な意味を有する座標を以て置き換えたという点に於てカントから離れると云わねばならぬ。併し之とても実在認識とはある関係を吾々に固有な主観性に与えられた形式によって云い表わすことであるというカントの根本精神に基くものと考えられる。ただ真にカントを離れる点は数学的概念を茲に応用するに際して多数の形式が可能であり又事実要求されるということに外ならぬ。即ち就中空間乃至時間的な規定を抽象的な量概念によって置き換えたが如きことはその一つであると考えられる。要するにカントと近代の物理学との多くの矛盾は実在認識の持つ二重の性質から説明出来るであろう。即ち直接の知覚と知的な思惟上の理解の仕方との二つである。カントは後者を眼中に置かなかったのであるが恰も之が近代の物理学の発達に相当するものでなければならぬ。併し又物理学が「直接に認識し得る」という誤謬に陥り易い時之を警戒するものはカントの時間及び空間の表象の思想でなければならぬ。

   三 因果律

 カントは第二比論に於て「継起する(存在し始める)ものは総て、それが或る規則に従って結果する処の何物かを予想する」というのであるが、かかる因果関係に於て特に一つのものをとり出してそれを原因と考えることは作為なくしては不可能である。そしてこのことは一義的な客観的意味を持つことは出来ない。吾々は寧ろある出来事に対して充足な理由をそれに先行する状態の全体[#「全体」に傍点]の内に認めねばならぬ。或いはかく云えばある一定の原因に常にある一定の結果が伴うということは云えなくなるかの如く見えるであろう。併し因果律の重心は法則[#「法則」に傍点]又は一般性[#「一般性」に傍点]の内にあるのである。それ故因果律を一般的に云い表わせば「ある瞬間に与えられたる関係 Verhalten とこの関係のその時点に固有な変化との間に合法則的な即ち一般的に見出し得る関連が成立する」と云ってよいであろう。私は之を因果律の発生論理的 nomologisch な解釈と名づける。然らばかかる関連は如何なる論理的な形式で[#「如何なる論理的な形式で」に傍点]云い表わされるのであるか。それは「同一の条件[#「条件」に傍点]の下には同一の結果が起きる」という事である。併し実在界の全体が反覆出来ない以上、これは勿論ある一定の範囲に於ては[#「ある一定の範囲に於ては」に傍点]同一の条件の下に同一の結果が起きるということである。併しかくしても同一の条件が繰りかえし得るということは厳密な意味に於て云うことは出来ない。普通類似[#「類似」に傍点]の条件の下には類似の結果が起きると云われるのであるが、類似という如き徴標が甚だしく主観的な要素に依存するものである以上この云い表わし方は終局的なものとは考えられない。今出来事を一つの関数と見るならば関数を云い表わす方式は無数の場合に就いて夫々異った何物かを与えるものである事は、云うまでもない。関数関係は無数の個々の場合を統一的に云い表わすと共にその表現の内容と意味とは個々の場合の個別的な関係によって決定されるものに外ならぬ。それ故関数の力を借りることによってのみ以上の困難は除かれ得る。因果律は「あらゆる時点に於て与えられたる関係とその時点に固有な変化との間には合法則的な関連がありそれがこの変化をこの関係の関数として一義的に決定する」ものとして表現されるのである。私は之を因果律の発生論理的関数的[#「発生論理的関数的」に傍点]な解釈と呼ぶ。
 因果律の発生論理的な解釈に対して作用[#「作用」に傍点]とか力[#「力」に傍点]とかいう概念によって因果律を規定しようとする考え方もあるのであるが吾々はかかる作用或は力を直接に知覚することは出来ないのであるから、もしそれがある関係を簡単に云い現わす説明法としてでないならば、それは吾々の認識の範囲を越えたものと云わねばならぬ。吾々の認識し得るものは何と云っても法則の概念による発生論理的解釈をとらせる。尤もキルヒホフなどが力学をば現象を「完全に最も簡単な形式で記載する」ものと定義して力や作用の概念を排斥したことはこの法則の概念に不当な付加物をさし入れることとなるであろう。元来「完全に」というもそれは吾々の認識能力の外に横たわることである。「簡単」というも力学は云わば直接に知り得る事実を簡単に云い表わすことをとり扱うのではなくして直接に与えられたるものを超えて一般化することであるからこの「簡単」は実は法則に帰するものでなければならぬであろう。併し因果律を以上の如く解釈してもそれは吾々の自然認識の一般的な形式を示すだけであってそれによってはまだ事実に対する因果律の意味は尽くされていない。合法則的に秩序づけられることを指し示す論理発生的解釈の外になお因果律の「本体論的」な規定が残されている。吾々はたとえ厳密な意味での法則に達しないまでも継起に就いて因果的と呼ばれるある秩序を近似値的に見出し得るであろう。俗に之をもなお法則と呼ぶならばそれは「Geschehen の法則」と呼んでよいであろう。
 併しある個々の対象や出来事をある一定の結果の原因であると見る考え方は独り日常の知識のみならず科学的な認識に於ても行なわれる処である。吾々は何かある一定のものを特別の意味に於て原因として掲げる。即ち主なる[#「主なる」に傍点]原因として掲げる。そしてそれ以外の関係を条件と名づけるのである。併し何れを主原因とするかは厳密に客観的に与えられるのではなくただ主観的な観察の仕方が決定するものに外ならない。例えば特に重大なもの、即ち異常なるもの、新しく這入って来たもの、法律上の不法行為等が特に原因と考えられる。この場合もしそれが無かったならばこの結果は起きなかったであろうと思われるものが選ばれるのである。このような考え方は勿論厳密な概念に到達することは出来ぬとしても主なる関係を順次に追求することによって問題を明瞭に解決し得ることとなるであろう。
 さてカントが継起するものは総てそれがある規則に従って結果する処のものを予想すると云う時継起の全体の個々の出来事に又先行するものの全体が個別的に区別されうる個々の関係にほごしうるということを暗々裏に予想している。それ故茲にはかの関数概念[#「関数概念」に傍点]が見失われて了う。併し之に反してカントの因果律の重心が規則[#「規則」に傍点]の概念にあるとすれば私が発生論理的解釈と呼んだ処のものは少くとも茲に考えられているわけである。吾々が超越的な不可認識の概念として排斥した作用の如き概念はカントに於ても除外されているのであるから。
 因果律は時間表象を本質的な欠くべからざる要素として含むことはすでに明らかである(そしてそれ故時間空間的世界形象から抽象的な世界形象に移るにはある限界があるということが明らかとなった)。而して時間の形式は吾々に固有な精神の性質によって与えられる実在認識の形式である以上吾々の体験は総て時間的でなければならぬ。而も吾々は因果律に相当する規則又は秩序を持たぬ処の体験の過程を表象し得るであろう。それ故因果律を強制的に確信することは不可能であるかも知れない。併しそれと共に因果律が成立しないということを強制的に意識することも出来ない。何となればそのためには同一の条件の下に同一ならざる結果が起こるということを証明せねばならぬのであるが恰も吾々は条件を厳密に残りなく見渡すことはすでに述べた如く不可能であるから。因果律の確信を持つことが出来ぬということはそれが妥当しないということから厳に区別されねばならぬ。因果律にはそれに特有な論理的な位置がある。吾々はそれを特殊の自然法則と同一視することは出来ない。ヘルムホルツも云うようにそれはあらゆる自然認識の場合になされねばならぬ予想であると云わねばならぬ。カントが主張する因果律の先験性は正にこの妥当性に外ならない。普通精神は自由の領域と考えられるが茲にも因果律が行なわれることは精神をも死せる自然と斉しく見得る限り許されうる。まして生命現象の自然科学的研究に於ては因果律がそのまま行なわれねばならぬ。ドリーシュ等の主張する活力説と雖も因果的な考察に矛盾するものではない。成程因果律の厳密なる形は総ての瞬間の出来事はそれに直接に先行する瞬間から一般的な法則に従って起きるということであり、そしてかく一般的な法則に従うということを習慣上 Mechanismus と呼ぶのであるがそれは決して空間内の物体の運動を理解する仕方のかの、Mechanismus ではない。而も活力説はただ後者と相容れないというまでであって前者とは何等矛盾するものではない。それが矛盾すると考えられるのはメハニスムスの二義を混同することに基くものである。活力説に於ても因果律は妥当せねばならぬ。併し因果律は数学的であることを述べたがかかる数学的関数関係はそれとは全く異る活力説の概念材料に如何にして結び付き得るのであるか、もし因果律が関数関係としてのみ妥当するこ
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