とを許されるものであるならばこのことは到底不可能と云わねばならぬ。それ故今や吾々は因果律の数学的な概念に対してのみ可能であるような形式上厳密な妥当性をもはやあらゆる経験の不可欠の特徴であると云うことは出来ないであろう。ある点でかの最高の厳密さを欠いた経験否全然之を含まない経験ということも考え得ると思う。物理学に於ける量子論なども之であると考えられる。
 近代の自然科学が因果律に対してそれに固有な特殊の位置を与えたということはカントの立場とよく一致することである。ただカントがその証明をば、吾々は至る処過去の経験なくしても因果律が妥当するかの如く事実上振舞い得るという事実[#「事実」に傍点]に求めたことは、時間及び空間の表象に於けると同じくカントの精神が純論理的な見地に立ちながらもなおカントが妥当の問題と心理発生論的問題とを完全に区別しなかったことを示すものである。

   四 生物の目的論的考察

 吾々は目的と云えば第一に思惟するものによって欲せられたもの目論みられたものを考える。即ちそれは意志の概念に帰する。併し勿論之は生物の目的論的考察の対象とはならない。第二に考えられるものを私は「仮の合目的性」と呼び得るであろう。即ち有機的な組織は常にある一定の結果を現実するように出来ていて一定の目的のために組み立てられてある「かの如く」見えるということである。この仮の合目的性を如何にして説明し得るかは生物学の研究する処であるが併し之は一般的な自然科学的な研究の範囲の外にある者である。何となれば之は因果的合法則性に於てのみ説明されるものに外ならぬのであるから。この生物学的合目的性はなる程活力説を促すではあろうが併し因果的な考察に対して目的論的考察を対立せしめる理由は持たぬであろう。之に反して以上のように他の概念に帰する見方を全く離れて自立的な終局的な意味がこの目的概念に求められるかどうかを見る時吾々は全く別の事柄に逢着する。かくの如く目的概念に独立の意味を許す考え方は往々行なわれる処であり、それは因果的な見方と目的論的な見方とを対立せしめ、更に次の如く云って両者を結び付ける。即ち吾々は継起の過程をば任意に前へも後へも辿れるのであって後の出来事が前の出来事に依存すると見るのが因果的な見方であり之に反して前の出来事を現在の即ち後の出来事に依存すると見るのが有極的な finale 
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