見方であるとする。併し因果的に見るということは後のものを前のものの関数を現わす法則として見ることに外ならぬのであるが思うにかかる法則は独り後のものを前のものの関数として現わすのみならず又前のものをも後のものの関数として一義的[#「一義的」に傍点]に決定するものでなければならぬ。それ故実は継起は前へも後へも同様に[#「同様に」に傍点]辿れるものなのである。現在から未来へ辿る所謂因果的な見方がそれに対立する見方よりもより多く行なわれるということは全く未来が吾々にとって全く未知であるから特に興味を惹くということのために過ぎない。何れも同じ因果的な土台の上に立つと云わねばならぬ。勿論結果を惹き起こす Verursachung などという概念を用いるならば二つの見方が同一の土台の上に立つとは云い難いであろうが前にも述べたようにかかる概念は合法則性の記載的な意味を超越したものである以上、かかる概念に基くと考えられる目的概念は科学から之を捨て去って了わねばならぬ。かくして自然科学にとっては目的論の成立する余地はないのである。
それ故カントに於て見出されるこの問題が実際に大きな意味を持つものとは考えられない。この点に就いては現代の科学的見方とカントの思想との関係に多くの興味を繋ぐことは出来ぬと思われる。たとえカントの一般的考え方にとってこの問題が重大であるにしても之を時間空間の問題に於てのように精細に取り扱う理由は見出せないと思うものである。
自然科学的実在論的考え方と哲学的批判的考え方とがあるとすればこの対立が学の発達の暁に於て止揚されるという望みは少いであろう。前者は後者なくしても少くとも自然科学を実際に満足せしめ得るのであるから。併し実際上の問題を離れて認識論的見方に立つ限り両者の対立を止揚する事が吾々の願いでなければならぬ。私はこの論文に於て之を試みたと云うことも出来るであろう。分裂しがちな人間の認識と研究の総体を不離の一者に結び付けた人の尤なる者、カントを記念する日こそこの試みに最も応しくはないであろうか。
[#地から1字上げ](一九二四・一一・七)
底本:「戸坂潤全集 第一巻」勁草書房
1966(昭和41)年5月25日第1刷発行
1967(昭和42)年5月15日第3刷発行
初出:「哲学研究 第九巻第一〇五号」
1924(大正13)年11月7日
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