外されているのであるから。
因果律は時間表象を本質的な欠くべからざる要素として含むことはすでに明らかである(そしてそれ故時間空間的世界形象から抽象的な世界形象に移るにはある限界があるということが明らかとなった)。而して時間の形式は吾々に固有な精神の性質によって与えられる実在認識の形式である以上吾々の体験は総て時間的でなければならぬ。而も吾々は因果律に相当する規則又は秩序を持たぬ処の体験の過程を表象し得るであろう。それ故因果律を強制的に確信することは不可能であるかも知れない。併しそれと共に因果律が成立しないということを強制的に意識することも出来ない。何となればそのためには同一の条件の下に同一ならざる結果が起こるということを証明せねばならぬのであるが恰も吾々は条件を厳密に残りなく見渡すことはすでに述べた如く不可能であるから。因果律の確信を持つことが出来ぬということはそれが妥当しないということから厳に区別されねばならぬ。因果律にはそれに特有な論理的な位置がある。吾々はそれを特殊の自然法則と同一視することは出来ない。ヘルムホルツも云うようにそれはあらゆる自然認識の場合になされねばならぬ予想であると云わねばならぬ。カントが主張する因果律の先験性は正にこの妥当性に外ならない。普通精神は自由の領域と考えられるが茲にも因果律が行なわれることは精神をも死せる自然と斉しく見得る限り許されうる。まして生命現象の自然科学的研究に於ては因果律がそのまま行なわれねばならぬ。ドリーシュ等の主張する活力説と雖も因果的な考察に矛盾するものではない。成程因果律の厳密なる形は総ての瞬間の出来事はそれに直接に先行する瞬間から一般的な法則に従って起きるということであり、そしてかく一般的な法則に従うということを習慣上 Mechanismus と呼ぶのであるがそれは決して空間内の物体の運動を理解する仕方のかの、Mechanismus ではない。而も活力説はただ後者と相容れないというまでであって前者とは何等矛盾するものではない。それが矛盾すると考えられるのはメハニスムスの二義を混同することに基くものである。活力説に於ても因果律は妥当せねばならぬ。併し因果律は数学的であることを述べたがかかる数学的関数関係はそれとは全く異る活力説の概念材料に如何にして結び付き得るのであるか、もし因果律が関数関係としてのみ妥当するこ
前へ
次へ
全13ページ中10ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
戸坂 潤 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング