Iロギーの論理学[#「イデオロギーの論理学」に傍点]に、何かの仕方で結び付かなければならない筈であった――前を見よ。それを見るためには併し、ジャーナリズムとアカデミズムとのイデオロギー的機能[#「イデオロギー的機能」に傍点]を(そしてイデオロギーは論理によってその骨髄を与えられる筈だったことを思い起こそう)、もう少し立ち入って検べて見なければならない。
 ジャーナリズムのイデオロギー的機能は、その批評性[#「批評性」に傍点]に求められる。ジャーナリズムは、それがどのように専門的なアカデミカルな事物を取り扱うにしても、常に之を評論的視角[#「評論的視角」に傍点]から取り上げねばならぬ。それは文芸批評[#「文芸批評」に傍点]として又学術評論[#「学術評論」に傍点]として、特色を現わす。だから文学とか哲学とかいう、それ自身批評的・評論的・性格を担っているものは、それが優れたものである場合、多くジャーナリスティックな特色を持っていることが事実である。カントの批評主義[#「批評主義」に傍点]の哲学が甚だ能く読まれたなどは無意味ではない。――アカデミズムのイデオロギー的機能は之に反して、その実証性[#「実証性」に傍点]に求めることが出来るだろう。と云うのは、批評性は或る意味に於ける否定[#「否定」に傍点]であり、一般的には積極的な建設の反対であるが、この否定の反対としての肯定を吾々は実証性[#「実証性」に傍点](Position)と名づけておこう。オーギュスト・コントは実際、その実証主義をこうした批評主義に対立させている。分科的諸科学は、自然や歴史的社会に就いて、之を直接な生まな材料として、ひたすらに探究[#「探究」に傍点]する、それは必ずしもこの直接で生まな材料に基く諸探究を総合したり媒介したり秩序づけたりしない、要するに必ずしも批評[#「批評」に傍点]しないのである。――以上のことは、ジャーナリズムが常識[#「常識」に傍点]のものであり、之に反してアカデミズムが専門[#「専門」に傍点]のものであったことからも、至極自然に理解出来る。
 だが無論のこと、この批評性の機能と実証性の機能とは、単に今云ったように区別対立しているだけではなくて、至極複雑ではあるが、併し一定の連関関係に這入っていなくてはならない。二つのものは実は、一つのイデオロギーの二つのモメント[#「二つのモメント」に傍点]に外ならなかった、単なる批評もなければ単なる実証もあり得ない、在るものは何かの形態に於ける両者の結合でしかない。
 文学の制作[#「制作」に傍点]は一つの実証である、それは他人の制作した作品を品|隲《しつ》するのではなくて、自ら生活材料を整理して形を与える処の一つの実証[#「実証」に傍点]的な探究である。この制作は併し実は、その制作者のそれ以前の制作に対する批評[#「批評」に傍点]を無視していなかった、ということを今注意しなければならない。この制作は批評から、この意味に於て一続きのつながりを有っていたのである、もしそうしなければ、制作の客観的な進歩は恐らく望み難いだろう。だが逆に又、批評家は或る意味に於て――少くとも可能的な制作家として――同時に作家でもなければならない、それが批評家の必要な資格なのである。そうすると批評は批評者の――可能的な――制作を仮定しないではなり立たない、そうでなければ批評は全く外部的な印象[#「印象」に傍点]でしか無くなるだろう。この点から見れば、批評は又制作から、この意味で一続きのつながりを持っていなくてはならない。――実際の現象としては作家と批評家は資格として又個体として別ではあるが、批評と制作との間には本質的にはこうした連関が横たわっている。
 之は文学に於ける批評と制作との連関であるが、一般に文化イデオロギー――文芸や科学――に於ける批評的モメントと実証的モメントとの連関は、今のをそのまま拡大して考えることが出来る。で今度は諸科学に於ける批評的契機と実証的契機との連関を注意しよう。そこにも今云った限りの連関のあることは云うまでもないが、ここではそれ以上に、両者のより特徴ある連関の関係が浮き出して来る。と云うのは諸科学に於ては批評と実証とが極めて近く歩みよっているから、二つの連関は特別な相貌を呈して来るのである。――諸科学に於ける批評は、それ自身実証的な内容をもつのでなければ批評とならず、又その実証は予め他の実証的研究の批評を基礎にしない限り始められない。実証は批評的であり(例えば文献の整理・他の所説の歴史への顧慮・を必要とする)、又批評は実証的である(例えば新しい実験によって従前の実験の結果をたしかめたり覆したりする)。ここにあるものは批評的実証[#「批評的実証」に傍点]乃至実証的批評[#「実証的批評」に傍点]である。吾々は之を簡単なために、科学的批評[#「科学的批評」に傍点]と呼ぶことが出来る。
 処で之は諸科学に於ける批評と実証との連関であるが、之を再び、一般に文化イデオロギー――文芸や科学――に於ける両者の連関にまで、一般化して引きもどせば、科学的批評の概念はそれだけ一般化される。実際人々は、文芸に於ても、「科学的批評」の問題を有っているだろう。
 今、こういう操作によって取り出された科学的批評[#「科学的批評」に傍点]の概念こそ、イデオロギーの実証的モメントと批評的モメントとの連関、即ち又アカデミズム的契機とジャーナリズム的契機との連関の、最も特徴的な場合に外ならない。云わばそれは、アカデミズムとジャーナリズムとの数学的相乗積なのである。――ジャーナリズムのイデオロギー的機能とアカデミズムの夫とは、このような形態で以て連関するのを特徴的な場合とする。

 さて、批評という言葉は実はどのような意味にでも用いることが出来るが、夫が科学的[#「科学的」に傍点]批評であるためには、批評は一定の価値評価[#「価値評価」に傍点]を結果する処の批判[#「批判」に傍点]でなければならない。そうでなければ批評は単なる評判や無駄なさし出口に過ぎないのであって、何の促進的なイデオロギー的機能を果すものでもなくなって了う。処が価値とは、すでに述べた通り、論理学的[#「論理学的」に傍点]なものでなければならなかったから、価値の評価は又論理学のものでなければならない。例えば一つの或る理論が金利生活者のイデオロギーだという、そういう社会学的[#「社会学的」に傍点]事実を指摘しただけでは、まだ単に科学的ではあっても批評的ではなく、又単に批評的ではあっても科学的ではない。そうではなくて、金利生活者のイデオロギーであるが故に、その理論の体系に於ける誤謬[#「誤謬」に傍点]や虚偽[#「虚偽」に傍点]が(或いは又その部分的真理[#「部分的真理」に傍点]が)摘出されて初めて、批判は科学的となる。その時初めて批判[#「批判」に傍点]は効力を発生するのである。この場合併し、金利生活者の理論体系のこの論理学的[#「論理学的」に傍点]構成が金利生活者の社会的歴史的――階級的――定位の社会学的[#「社会学的」に傍点]構成に対応せしめられる。[#傍点]イデオロギーの論理学がイデオロギーの社会科学[#傍点終わり](もはや必ずしもイデオロギーの社会学[#「社会学」に傍点]ではない)と連関せしめられるのである。イデオロギーの科学的批評――それはジャーナリズムから出て来た――は、イデオロギーの論理学とイデオロギーの社会科学との数学的相乗積にも当るだろう*。
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* アカデミズムとジャーナリズムとの一般的な分析は拙稿「アカデミーとジャーナリズム」(『思想』一〇一号)及び「批評の問題」(同誌一二三号)を見よ【いずれも本全集第三巻所収】。
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 かくてイデオロギーの科学的批評によって、イデオロギーの意識[#「意識」に傍点]としての側面と、歴史的社会的存在[#「歴史的社会的存在」に傍点]としての側面とが、具体的に媒介される。之は外でもない、イデオロギーの社会学[#「社会学」に傍点]のメカニズム――ジャーナリズム・アカデミズム機構――のお陰であった。ここまで来てイデオロギーの論理学は初めて現実的情勢に即するまでに具体化されるのである。

 吾々は今や、イデオロギー論の課題の具体的な形態に問題を進めることが出来る。イデオロギー論は言葉通り、イデオロギーの理論だが、夫は一体イデオロギーをどうする理論なのであるか。或る種の――例えば社会学的[#「社会学的」に傍点]な――イデオロギー論は、一応(だが無論初めから不充分なのではあるが)イデオロギーの存在を承認しながら(何となれば社会学者は必ずしもイデオロギーの概念を充分に承認するとは限らない)、諸々のイデオロギーを「公平」に観察して夫々を特色づけるだけで、その間の資格の前後・優劣を決定しようと欲しない。ブルジョアジーはブルジョアジーのイデオロギーを持ち、プロレタリアは又之とは異ったイデオロギーを持つ、ということを指摘して、高々夫々の社会学的必然性を解釈するに止めようとするのである。
 唯物史観によるイデオロギー論は、そして元来本当のイデオロギー論は歴史的に見ても理論的に云っても唯物論のものでしかないのだが、之に反して、諸々のイデオロギーを批判[#「批判」に傍点]しないではおかない。それは夫々のイデオロギーの優劣・可否を判定することをこそその認識目的とする。実際、もしそうでなければ、一体イデオロギー論は何の役に立つだろうか。役に立つことを目的意識に取り入れない理論はすでに理論の第一の資格を欠いている。――処でイデオロギー論による諸イデオロギーのこの批判こそ、恰も先から云っていた科学的批評[#「科学的批評」に傍点]だったのである。
 再び云おう、イデオロギー論は唯物史観のものである。処が唯物史観はプロレタリア階級の歴史観に外ならない、それは階級的[#「階級的」に傍点]な見地に立ち、プロレタリア階級がブルジョアジーの階級を克服することによって歴史の進展を実践的に実現しようと欲する処の、階級性[#「階級性」に傍点]を持った歴史観なのであった。処でイデオロギー論は、プロレタリアのこの階級闘争[#「階級闘争」に傍点]のための理論機関の外はない。そして科学的批評は又そのための武器だったのである。
 イデオロギー論はであるから、先ずプロレタリアのイデオロギーに立つのでなければ何処にも成立しはしない。階級的判決を下し得るものは、それ自身階級性[#「階級性」に傍点]を有たざるを得ない。イデオロギー論はそれ自身一つのイデオロギーの体系であるが、イデオロギーがそうであったように、イデオロギー論は階級性を有つからと云って一般的に虚偽[#「虚偽」に傍点]に帰着するものではなく、プロレタリア的階級性を有つが故に、却って真理性[#「真理性」に傍点]を有つことが出来る。科学的批評は党[#「党」に傍点]派的であるが故に、却って初めてイデオロギーを真理にまで促進する役割を果すことが出来る。
 イデオロギー論の一般的な課題は、プロレタリア階級闘争のための理論機関として役立つことであった、ここでは諸イデオロギーはこの目的意識の下に、科学的批評の対象として取り上げられねばならぬ。それがイデオロギー論の内容となるのである。

 イデオロギー論のこの一般的な課題は、すでに今日まで、文学理論[#「文学理論」に傍点]や宗教批判[#「宗教批判」に傍点]やの形の下に、特殊化せられた。だが科学論[#「科学論」に傍点]も亦そうしたイデオロギー論の課題の特殊な場合として取り上げ直されねばならぬ――夫はすぐ後に見るだろう(第三章)。イデオロギー論はかくて要するに科学的な文化批判[#「文化批判」に傍点]をその課題とする。そこで文化社会学[#「文化社会学」に傍点]やその一部分としての知識社会学[#「知識社会学」に傍点]或いは社会心理学[#「社会心理学」に傍点]を、之と比較し、之等を批判することによってイデオロギー論自身を具体化せねばな
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