ト、この歴史的社会の運動に必要と考えられる諸形式を与えることによって之を独自に指導することを専心する処の、イデオロギーの運動形式である。だがそれが独自の原理と節操とを守ろうと力める余り、この歴史的社会の運動を促進する代りに、却ってその運動を固定せしめる、運動は惰性に落されるということになる。かくてアカデミズムは人々によれば固陋な自己満足に日を送るかのように見えるのである。
両者は元来、基本的・下部構造的・歴史的社会の発展の運動形式に対する、上部構造・イデオロギーの、取り得べき二つの運動態度でなければならなかった。それは元々、歴史的社会の運動をイデオロギー的に促進せしめるための、相互に補い合う筈の二つの極から成立っているメカニズムだったのである。それが或る条件の下には――その条件は後を見よ――その本質に含まれていた可能性を通して、却ってこの運動の制動機ともなることが出来る。でジャーナリズムの欠陥はアカデミズムの長所に、アカデミズムの欠陥はジャーナリズムの長所に、元来は対応する筈である。アカデミズムは容易に皮相化[#「皮相化」に傍点]そうとするジャーナリズムを牽制して之を基本的な労作に向わしめ、ジャーナリズムは容易に停滞に陥ろうとするアカデミズムを刺戟して之を時代への関心に引き込むことが出来る筈である。アカデミズムは基本的[#「基本的」に傍点]・原理的[#「原理的」に傍点]なものを用意し、ジャーナリズムは当面的[#「当面的」に傍点]・実際的[#「実際的」に傍点]なものを用意する。
イデオロギーの二つの本質的な契機[#「本質的な契機」に傍点]としては、ジャーナリズムとアカデミズムとは正に以上のような有機的[#「有機的」に傍点]な連関にあり、又そうなければならぬ。だが、イデオロギーの二つの歴史的形態[#「歴史的形態」に傍点]としての両者は、即ち現代に於ける[#「現代に於ける」に傍点]ジャーナリズムと現代に於ける[#「現代に於ける」に傍点]アカデミズムとの連関は、単にこう云っただけでは片づかない。
現代に於けるアカデミズムは、主として現代に於ける大学の本質[#「大学の本質」に傍点]によってその実質を決定されている。アカデミズムは元来、何かこうしたインスティチュートの特殊な存在によって制約されているものであったが、今日の――資本主義社会に於ける――大学は、更に特殊な社会的機能を果さねばならぬ。と云うのは、元々欧洲の旧い諸大学は封建的(乃至又宗教的)旧制度の必要を充すべく出来上ったのが多いのであるが(例えばオックスフォード・ソルボンヌなど)、資本主義制度によって確立された其後の諸大学も、多かれ少なかれこの封建制度からの伝統にぞくしているものが多い(例えばドイツの新しい大学やわが国の帝国大学の如き)。だが今日では封建的残滓は資本主義の敵ではなくて却って末期的資本主義の最後の武器となる。それは懐古的国粋的――乃至ファシスト的――反動の役割を、今日の半封建的諸大学に課している。そしてこの点では純粋に資本主義的な――かの伝統から自由な理想の下に生まれた――諸大学(わが国の初期の私立大学の如き)も、今日では殆んど之と異る処はない。なぜなら殆んど凡ての資本主義諸大学が一様に、資本主義にとってのイデオロギー的機能を果すために、かの伝統に合流することによって或いは又独立に、ファシスト的反動化を行わざるを得なくなったからである。大学は事実今日資本主義国家の完全な武器となり終った。
かくてアカデミーの機能――それがアカデミズムである――は、この大学の本質・国家機関としての機能によって、一定の予め可能であった方向に実際に歪められて来る。アカデミズムは元々それが持っていた自己の固定化[#「固定化」に傍点]・惰性化[#「惰性化」に傍点]の可能性を愈々実現される、そうでなければ之に反動的な役割を容易に課すことは出来ない。処が次にアカデミズムはその反動的役割の内に、今や自らの学的価値[#「学的価値」に傍点]をさえ自覚しようと欲する。そうなると之はもはや単なる固定化や惰性化ではなくて、その生命であった基本性[#「基本性」に傍点]・原理性[#「原理性」に傍点]の喪失でなくてはならぬ。アカデミズムは完全な廃頽物となって了うのである。――之が今日の資本主義制度下に於けるアカデミズムの歴史的形態[#「歴史的形態」に傍点]なのである。
処が今日のジャーナリズムも亦、資本主義によって抜くべからざる歪曲を受けている。ジャーナリズムの今日の形態は出版資本[#「出版資本」に傍点]の副産物に過ぎないとも云うことが出来る程に、資本主義――印刷・製紙の技術や販売組織に現われる――は近代ジャーナリズムの抑々の発育期から之を制約している。初めから資本主義と同伴しなければならなかったという点が、――大学は之に反して初めは必らずしも資本主義の所産ではなかった――近代ジャーナリズムの生れながらの運命だったのである。だが、多くの官公立諸大学が直接に資本主義的利潤の追求を目的としないのとは異って(但し私立の企業大学は別である)、今日のジャーナリズムはそれ自身直接に利潤の獲得を目指していることを見逃してはならない。それだけジャーナリズムの資本主義による歪曲は、アカデミズムのそれに較べて深刻であらざるを得ない。
かくて現代に於けるジャーナリズムは元々それが持っていた無定見性[#「無定見性」に傍点]の可能性を実現し、センセーショナルでトリビアルなものとなる。そうしなければ商品価値[#「商品価値」に傍点]を生じ得ないのである。だがそれだけではなく、そうなることによってジャーナリズムはそれに固有な当面性[#「当面性」に傍点]・実際性[#「実際性」に傍点]を失って了わねばならなくなる。それは現実行動的・時事的・性格――世論の指導・評論能力――を犠牲にせざるを得ない。実際例えば今日の諸新聞紙(近代的大新聞紙)は次第にその政治的見解を均等化しつつあるだろう。――このようなものが今日の資本主義制度下に於けるジャーナリズムの歴史的形態[#「歴史的形態」に傍点]なのである。
さて人々は、資本主義制度の下に於けるジャーナリズムとアカデミズムとのこの二つの形態が、直接にそれ自身としては、相互の間にもはや何等有機的な連関を持てない処の、バラバラなそして相互に矛盾した、二つの現象となっている、ということを今注意せねばならない。アカデミズムはアカデミズムで歴史的社会の必然的運動から愈々全く無関係に高踏化して行くし、ジャーナリズムはジャーナリズムで又之とは独立に、この運動を断片的な諸刹那に分解することによって愈々この運動を見失って了うが、その結果として、この二つのものは、相互を傷つけるようにしか作用しない状態に陥って了っている。で二つのものが有機的な連関に齎らされそうな手懸りは、今日ではもはやどこにもない様に見える。アカデミズムとジャーナリズムとは本来歴史的社会の運動に関して、初めから有機的に連関して相互に補い合う筈の、二つの契機――二つの極――ではなかったか。この二つのものの有機的な連関を、処が、近世資本主義が分解して了ったのである。かくて今や二つのものは歴史社会自身にとっての矛盾物であるばかりでなく、そうであることによって又相互に矛盾せざるを得ないものとなる。
救済は併し空から天降って来ることは出来ない。丁度資本主義は資本主義自身の用意した契機によって止揚されねばならないように、この二つの矛盾物は、それ自身の力関係の内から矛盾の解決の鍵を見出さねばならぬ。
実際、今日のジャーナリズムは次第にアカデミズムの従来の領域と権威とを奪い、良かれ悪しかれその力を増大しつつある。わが国などではジャーナリズムと云えば以前は単に文壇的なものとしか考えられなかったものが、今日ではアカデミーの独壇場であった理論の世界を蚕食して、論壇[#「論壇」に傍点]が形成されるに至ったのを見る。ジャーナリズムは理論的ジャーナリズムにまで、進行したのである。アカデミズムに対するジャーナリズムのこの力関係は併し、前者が主に封建制度からの伝統を持った封建的生産物の資本主義制度の下に於ける残存物であったのに反して、後者が専ら純資本主義制度の所産であるという、歴史的推移に於ける二つのモメントの力関係を云い表わしているに外ならない。でそれだけ、アカデミズムは熟しそして老い、それが含む凡ゆるモメントをすでに叙述し展開しつくしているが、之に反してまだ若いジャーナリズムにとっては、まだその凡ゆるモメントが客観的に展開し尽されては居ない。ジャーナリズムは、その可能性がまだ悉くは実現していない、それは客観的に様々なモメントを混同している、それは多分の未来を有つ。と云うのは、今日のジャーナリズムの形態は取りも直さずブルジョア・ジャーナリズムであったが、そして近来わが国のジャーナリズムも、急速に左翼イデオロギーを閉め出し始めたが、併しこのジャーナリズムの内には近来まで、左翼イデオロギーのための余地が残されていなくはなかった。そしてより重大なことは、今日ではすでに、ブルジョア・ジャーナリズムから独立に、プロレタリア[#「プロレタリア」に傍点]・ジャーナリズム[#「ジャーナリズム」に傍点]が発育し始まっているという事実である。
近代ジャーナリズムは近代アカデミズムに較べてその発生の時期が新しいにも拘らず、尤も之は当然なことだが、却ってアカデミズムよりも現に先の歴史的段階を歩いている。アカデミズムとジャーナリズムとの矛盾の止揚はだから、アカデミズムの側からではなくて、正にジャーナリズムの側から、而もプロレタリア・ジャーナリズムの内から、待望されることが出来るだろう。
プロレタリア・イデオロギーはルーズな意味でも大衆のものである。そして一般的に云えば、ジャーナリズムも亦元来そうした意味での大衆のものだったのである。今日のアカデミズムは処が封建的貴族と資本主義的貴族とのものであった。だからイデオロギーに於けるかの矛盾を止揚するものは、まず第一に、プロレタリア・アカデミズムよりも先に、プロレタリア・ジャーナリズムでなければならないのは当然である。――だがプロレタリア・ジャーナリズムとは何か、それは大衆化[#「大衆化」に傍点]の外ではない。
ジャーナリズムは普通、通俗化・啓蒙・又は俗流化とさえ考えられている。ブルジョア・ジャーナリズムならば、確かにそういう規定でも一応は捉えることが出来るだろう。だがプロレタリアのジャーナリズムはもはやそのようなものではないし、又あってはならない。一体人々は大衆という概念を勝手にルーズに用いるのではなく充分に科学的に用いなければならぬ*。それはプロレタリア階級に組織された又はされるべき民衆を意味すべきものである。大衆化とはだから外でもない、プロレタリアの組織化[#「組織化」に傍点]に外ならない。プロレタリア・ジャーナリズムとは、ただこの意味だけに於ける大衆化だったのである。――この大衆化の進み行く先端にそして、プロレタリア・アカデミズムも亦横たわるだろう、その暁にはアカデミズムとジャーナリズムとが、初めて本来の正常な有機的連関に、現実的に到着するだろうと考えられる。
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* 拙著『イデオロギーの論理学』の内の「科学の大衆性」【本巻所収】の項を参照。人々はジャーナリズムを問題にしつつ往々大衆の概念に触れるが、ジャーナリズムの概念が理論的に分析して用いられていないと同じく、大衆という言葉も全く個人的な思い付きから意味を与えられているに過ぎない場合が多い。
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[#3字下げ]四[#「四」は小見出し]
イデオロギーの社会学[#「イデオロギーの社会学」に傍点]として、少くとも吾々は一応、以上のようなジャーナリズム=アカデミズムの対立と連関とを指摘出来たが、元々この「社会学」は、それ自身だけで独立な根拠を持てるのではなくて、その根柢が[#「根柢が」は底本では「根抵が」]、かのイデ
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