謌黷ノ注意しなければならない。それは人間の日常生活[#「日常生活」に傍点]にその根を有つ処のイデオロギーの一形態乃至一契機なのである。日常生活は、仮にそれが公の生活ではなくて、個人の私的生活であっても、常に何か社会的[#「社会的」に傍点]な生活である。日の光は人間社会の――私的又公的――交渉の一日を開き又閉じる、人々にとっては社会的共通生活[#「社会的共通生活」に傍点]に這入ることによって一日が始まり、この生活から離れることによって一日が終るのである。そこでは私的個人の内部的な[#「内部的な」に傍点]「生」と普通考えられるものは、そのままではもはや殆んど問題になる資格を持てないし、異常なもの[#「異常なもの」に傍点]はこの社会的共通生活から除外されるか又は之によって平均されて了うのである。
(だから、人間の特異な内面性を誇張したり、異常な生の体験に依り処を求めたりすることによって、この社会的共通生活からの脱却を企てる宗教意識にとっては、この日常生活の原理――日常性[#「日常性」に傍点]――は、何か外面的で卑俗[#「外面的で卑俗」に傍点]なものとしか考えられない。それは何等の崇高さも高遠さも持たないものであるかのように貶されるのを常とする。)
 こうした日々の日常生活にその根を有っていたジャーナリズムは、普通世間の人々の平均的な知識・日常的知識と考えられる精神能力によって運ばれる。人々はこの能力を無雑作に常識[#「常識」に傍点]と呼んでいるのである。処で常識にとっては専門的[#「専門的」に傍点]な知識は一応不用であり又時に有害でさえあると考えられる、常識は通俗的[#「通俗的」に傍点]だという意味に於ても、又世間に知れ渡る[#「知れ渡る」に傍点]という意味に於ても、ポピュラー[#「ポピュラー」に傍点]であることが出来る、夫は例えば公衆(Public)によって支持される知識である、とそう人々は考えている。
 だが日常性[#「日常性」に傍点]乃至常識[#「常識」に傍点]の概念をこのようなものとしてしか理解しないことは、夫自身之に対する――劣悪な意味での――常識的理解でしかない。常識は一方に於て共通的な・平均された・凡庸な・知識を意味しないのではないが、他方に於て又健全な良識[#「健全な良識」に傍点](ボンサンス)をも意味しているのが事実である。元来常識―― Common sense, Gemeinsinn ――という言葉は、アリストテレスの De Anima に於ける共通感覚[#「共通感覚」に傍点](共通感官・共通感)から来たのであるが、それが五官に[#「五官に」に傍点]共通であることから転じて、人間一般に[#「人間一般に」に傍点]共通であることに変化して来て常識[#「常識」に傍点]となり、トーマス・リードの手によってそれが真理の直覚的な公理の提供者とさえなった。無論リードなどが考えていた人間一般は英国風の人間学――人性論(human nature の理論)――にぞくすると考えて好いから、すでに特殊な哲学史的制限を持っているのであるが、人々の常識[#「人々の常識」に傍点]は、この常識という概念を、実はもっと健全に理解している。というのは、凡ゆる人間に共通な根本的知識など事実あり得ないのが本当であって、実際の常識とは、世間の一般の人々[#「世間の一般の人々」に傍点](必ずしも総てである必要はない)にとって共通に通用する能力・知識及び見解を意味すると人々は考える。それは凡ゆる人間が事実立脚している公理的[#「公理的」に傍点]な知識ではなくて、却って凡ゆる人間が準拠すべき規範[#「規範」に傍点]・理想的態度[#「態度」に傍点]としての性格を有っている。だから知的常識[#「知的常識」に傍点]の効用を却けたカントも、趣味判断に於ては美的常識――美的共通感覚(Sensus Communis aestheticus)――に根拠を求めることが出来、またそうせねばならなかった。――日常性はこうした常識が自分自身で持っている原理なのである。常識は他の何かの原理からの脱落や背反ではない、それ自身の原理を有っている。
 ジャーナリズムが日常生活に根を有ち、従って常識的であるということは、ここからもう一遍規定し直されなければならなくなる。もしそうしなければ、一般にジャーナリズムは、多くのアカデミケルが無意味に反覆しているように、何の積極的な価値も有たない処の、一つの不思議な――悪魔と同じに説明し難い――現象でしかなくなるだろう。
 ジャーナリズムの特色は実は、その現実行動性[#「現実行動性」に傍点]・時事性[#「時事性」に傍点](actuality)になければならなかったのである。と云うのは、それは、歴史の上からは現在性[#「現在性」に傍点]として、存在[#「存在」に傍点]乃至事実[#「事実」に傍点]の上からは現実性[#「現実性」に傍点]として、行為[#「行為」に傍点]の上からは活動性[#「活動性」に傍点]として、生活[#「生活」に傍点]の上からは社会性[#「社会性」に傍点]として、規定されねばならぬ。吾々の日常生活・常識の世界・の積極的な内容は恰もこうしたものなのである。常識の主体と考えられる公衆が、公衆として関心を持つ問題は実際、こうした規定によって理解出来る処の時事問題[#「時事問題」に傍点]なのであって、時事問題とは言葉の通り、決して永久な問題ではあり得ない、公衆が健忘症である所以である。
 現実行動性によるこの時事問題は併し、常に政治的性格[#「政治的性格」に傍点]を有っている、日常生活は実践性[#「実践性」に傍点]――社会活動性――を有っているが、そうした実践性が含蓄ある意味での政治性に外ならない。事実所謂政治は、良い意味に於ける常識によって取り行われるべきだと、デモクラシーの理想は教えている。政治に玄人はあってはならぬ、凡ての人が、政治に干与しなければならないと。
 処がこの政治的・時事的・問題は常に、思想[#「思想」に傍点]――イデオロギー――と呼ばれるものと結び付いている。人間の社会的実践が政治に於て最も著しいとすれば、この実践を顕著に反映する意識が、所謂思想なのである。思想とは併し常に、哲学的[#「哲学的」に傍点]・世界観的[#「世界観的」に傍点]・意識の外ではない、政治は思想に、思想は哲学に、同伴する、政治学は元来哲学の重大な一部門であった。――処でジャーナリズムの内容は、社会人の有っている世界観・哲学・の一つの直接な表現でなくてはならない、そこでは世相[#「世相」に傍点]が躍如として現われる。例えばジャーナリズムが何か非日常的・超常識的・非時事的・非政治的な部門の学芸を取り扱う時も、必ず之に何か思想的・哲学的・世界観的・な視角を与えることによって、之を時事化・政治化・現実行動化することを忘れないだろう。
 この現実行動性・時事性から出て来るジャーナリズムのも一つの規定は、その総合統一性[#「総合統一性」に傍点]である。というのは、ジャーナリズムはその世界観的統一[#「統一」に傍点]によって、各々の専門的[#「専門的」に傍点]な諸科学を、又各々の分科的な諸文化を、初めて連関せしめることが出来る。云わばそれはエンサイクロペディック[#「エンサイクロペディック」に傍点]な特徴を有って来る。常識とは実際そういうものではなかったか。――元来ジャーナリズムは常に話題[#「話題」に傍点](Topik)に上り得るものでなければならない。話題とは凡ゆる部門的な分科的な事物が、言葉[#「言葉」に傍点]という共通な場処[#「場処」に傍点](Topos)をめざして集まる[#「集まる」に傍点]ことを示唆する言葉である。この集まる場処は市場[#「市場」に傍点]の外ではなく、そこで一切の知識が交換され(ニュース・評判)、訂正総合され(議論)、又誇張されたり捏造されたりする(虚偽[#「虚偽」に傍点])。かくて常識[#「常識」に傍点]――ドクサ――が養成される、神話[#「神話」に傍点]や世論[#「世論」に傍点]が出来上るのである*。やがてここで又範疇[#「範疇」に傍点]――之は公衆に向って語ることを意味する言葉で市場[#「市場」に傍点]と語原を同じくする――が発生し、論理[#「論理」に傍点]が構成され、理論[#「理論」に傍点]が出来上る。之が哲学的世界観に外ならない。哲学は常識のものであり、ジャーナリズムのものである。
[#ここから2字下げ、折り返して3字下げ]
* フランシス・ベーコンの『市場の偶像』を参考せよ。
[#ここで字下げ終わり]
 ジャーナリズムをこう規定すれば、之に対立するアカデミズムは割合簡単に決定出来る。アカデミーという言葉が、アカデメイヤに建てられたプラトンの学壇から起こったように、アカデミズムは教壇[#「教壇」に傍点]という特殊[#「特殊」に傍点]な――一般的でない――社会的存在条件を仮定している。それが人々の一般的な[#「一般的な」に傍点]日常生活の圏外に初めから逸していることを注意せねばならぬ。そこでは、常識は未熟なドクサとして、高貴な真理[#「真理」に傍点]から峻別されねばならない。と云うのは、一定の学派的訓練[#「学派的訓練」に傍点]によってしか見出されないような伝統的問題[#「伝統的問題」に傍点]の解答としてしか、真理は真理として現われることが出来ぬ。アカデミズムは一般社会[#「一般社会」に傍点]の現実行動的・時事的・な諸関心とは関係なく、アカデミーと呼ばれる特殊な社会圏だけにとってしか問題にならない問題に専ら関心を制限する。だから例えば社会科学などに就いて云えば、アカデミズムによる科学研究法は、科学のための科学として、純粋学[#「純粋学」に傍点]の追求となって現われる。アカデミズムが難解[#「難解」に傍点]を意味したり、衒学[#「衒学」に傍点]を意味したりしがちなのも無理ではない。――少くともアカデミズムは現実行動性・時事性によっては動かないという処に、その特色を有っている。それは何か超現実行動的・超時事的・な原理によって運ばれる処の、文化イデオロギーの一つの契機と一つの形態なのである。
 このことは併し、前に述べた連関から当然、アカデミズムの専門化[#「専門化」に傍点]を結果する筈であった。例えば科学は、言葉通り分科の学[#「分科の学」に傍点]として、それぞれの専門の分科の外へ出る必要を感じることなく、展開することが出来る。諸専門部門の間の総合統一は、この視角からすれば二次的な或いは無用な配慮でしかないと考えられる場合さえ少なくない。哲学と雖も、アカデミズムにかかっては哲学的[#「哲学的」に傍点]――世界観的[#「世界観的」に傍点]・思想的[#「思想的」に傍点]――に取り扱われなくても好い、問題は専門的な哲学的知識[#「知識」に傍点]又は技術[#「技術」に傍点]だけだ、と考えられる。

[#3字下げ]三[#「三」は小見出し]

 さてジャーナリズムとアカデミズムとを一応こう対立[#「対立」に傍点]させるとして、二つのものがどういう連関[#「連関」に傍点]にあるかが問題となる。――二つのものは事物に対する人々のイデオロギー的活動の、あり得べき二つの態度なのである。イデオロギー的活動のこの二つの契機乃至形態は、夫々が社会の上部構造のものであったということから、必然的な連関を与えられる。
 抑々ジャーナリズムは歴史的社会の運動の本質に於て一つの必然的な役割を有っている。それは社会の歴史的発展の運動形式に忠実であることを一時も忘れない処の、イデオロギーの運動形式なのである。だがそれが基本的な――下部構造としての――歴史的社会の運動にあまり忠実であろうとすることから、この忠実さが却って姑息な形骸となり、結果としてジャーナリズムは歴史的社会の運動を指導する独立なそれ自身の原理を見失って了うということにもなる。かくて人々によればジャーナリズムは全く無定見な日和見に時を費すものであるかのようである。
 処がアカデミズムは丁度之に反し
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