部構造という社会的な存在[#「社会的な存在」に傍点]であるばかりではなく、それが夫々の一定の形態物――観念形態――であることから、論理的な価値物[#「論理的な価値物」に傍点]とならねばならない。意識の問題は吾々によればイデオロギーの問題であったが、そうであることによって意識の問題――意識という存在[#「存在」に傍点]の問題――は所謂価値[#「価値」に傍点]の問題にまで成長するのである。
所謂価値[#「価値」に傍点]は吾々のイデオロギーの概念によって初めて、その誕生の不思議なカラクリを示される。所謂「価値論」によれば、価値は存在とは完全に別である、それは存在からは発生しない。だがそうすれば一体価値はどこから生れるのであるか、空から天降ってでも来るのであるか。こうした困難を恰も弁証法的に解決するものがイデオロギーの概念である。イデオロギーは一つの存在物である、だがそれ故にこそ[#「それ故にこそ」に傍点]夫は一つの価値物となる[#「なる」に傍点]、夫は真理[#「真理」に傍点]或いは虚偽[#「虚偽」に傍点]を云い表わすのである*。
[#ここから2字下げ、折り返して3字下げ]
* イデオロギーをば、歴史の運動に取り残された意識と考えることは、一般に行われる処であるが、意味のあることだ。なぜなら之は、イデオロギーが何故虚偽意識[#「虚偽意識」に傍点]となるかということの一つの説明を与えるからである。イデオロギーとは要するに歴史的存在に追いつけない意識だから虚偽だという主張なのである(歴史的存在を追い越して了った意識は之に反してユートピア[#「ユートピア」に傍点]と考えられる)。――だが、之では真理意識[#「真理意識」に傍点]としてのイデオロギーは理解するに由がない。イデオロギーの価値的規定は単に歴史の時間的なメカニズムだけからは与えられない、社会の云わば空間的な――階段[#「階段」に傍点]による――メカニズムを用いなければならない理由が茲でも明らかだろう。
[#ここで字下げ終わり]
単なる意識[#「意識」に傍点]は高々存在(自然・歴史的社会)の単なる[#「単なる」に傍点]反映を云い表わす概念である。イデオロギー[#「イデオロギー」に傍点]は、意識形態[#「意識形態」に傍点]は、之に反して存在の反映を具体的に叙述する[#「具体的に叙述する」に傍点]処の概念である。イデオロギーは存在から出発し、存在から分離し、或いは存在から分裂し、そして終局に於て又存在に一致するという、観念乃至意識の、必然的な運命を物語る[#「運命を物語る」に傍点]概念なのである。所謂「意識の問題」――諸形式の観念論・ブルジョア哲学の根本問題――は処が、こうした形の問題を提出することが出来ない、「イデオロギーの問題」が初めて意識の問題をば、解き得る公式にまで造り変えるのである。
[#改段]
[#1字下げ]第二章 イデオロギー論の課題[#「第二章 イデオロギー論の課題」は中見出し]
[#3字下げ]一[#「一」は小見出し]
イデオロギーは、相対立する二つの規定を有っている。一方に於て夫は意識[#「意識」に傍点]であるが、他方意識は単に意識ではなくて一つの歴史的社会的存在[#「歴史的社会的存在」に傍点]でもなくてはならない。そこで吾々は仮に、イデオロギー論の二つの――対立する――課題として、イデオロギーの心理学[#「イデオロギーの心理学」に傍点](この言葉を可なり自由に用いるとして)と呼んでおいて好いものと、イデオロギーの社会学[#「イデオロギーの社会学」に傍点](この言葉も亦便宜上広めて使うことにして)と呼んでおいて好いものとを、対立させて見なければならない。但しここで心理学と云い社会学と云うのが、普通そう呼ばれているものから、どれ程異っていなければならないか、夫こそ今から見ようとする点なのである。
普通、心理学者達は意識を論理学[#「論理学」に傍点]から独立に取り扱うことが出来ると考える。或いは逆に云えば論理学は意識の分析とは独立に成り立つと仮定している。無論論理学者自身も亦この仮定で満足しているのが多くの場合である。論理学は高々、意識を極めて一部分にしか過ぎない表象[#「表象」に傍点]、又は思考[#「思考」に傍点]、に関する心理学的考察と関係を有つに過ぎないかのように考えられる。もし論理学乃至論理と呼ばれるものが、かの形式論理――学校論理――の外へ出ないものならば、なる程このことは本当だろう。論理の形式だけが論理学にぞくする、論理の内容は、そして論理の内容はもはや論理ではなくもっと具体的な意識内容――感情とか意志とか――であるが、この意識内容は、心理学にぞくする、ということになりそうである。
併しこういう仮定、心理[#「心理」に傍点]と論理[#「論理」に傍点]との独立という意識的又は無意識的な仮定は、心理学をも論理学をも、極めて滑稽な姿のものに導くだろう。心理学はもはや心理の論理的機能[#「論理的機能」に傍点]に対して全く手を下すことが出来なくなり、同時に又論理学は心理の[#「心理の」に傍点]論理的機能とは何も必然的関係のないものに就いて語らねばならなくなる。例えば形式論理学の教科書に於てのように、表象や観念や概念や範疇に就いて、その心理学的規定は全く無用なものとなって了うから、単に之を義務的に初めに掲げておいて、後から木に竹を継いだように之に、論理学的規定を付け加える外はなくなる。少くとも論理は意識・心理の一つの機能である、それは日常的な観念把握によれば明らかな事態である、処がこうした論理学と心理学とによれば、こういう常識的な大事な仮定が無視されて了う。論理学的なものは心理学的なものであってはならぬ、所謂論理主義はそう主張する、だが論理主義者が非難する心理主義者――その代表者は当然第一に多くの心理学者である――自身も亦、この主張を実は裏書きしている場合が多い。
意識は心理学的諸仮説――心的要素・感覚其他――とは独立に、一つの統一的[#「統一的」に傍点]な存在である。そうでなければそれは意識として存在出来ず、又意識としての資格を保つことが出来ない。人々は之をだから「意識の統一」、「意識の流れ」、「意識の志向作用」、等々として指摘するのを怠らないのである。意識は常に意味を持つ[#「意味を持つ」に傍点]処の、意味する[#「意味する」に傍点]処の、意識でしかない。意識はだから、云わば何か平面なようなものではなくて立体によって類推されるべきものだろう、例えば円錐とか波とかが之である。だが意識のこの立体性・統一性を成り立たせる構造[#「構造」に傍点]は何であるか。意識の要素的諸部分の間の相互関係にしか過ぎない処の所謂「意識の構造」が何かと云うのではない、意識が一個の意識統一[#「一個の意識統一」に傍点]としてなり立つ所以のものは何か。吾々は夫を、最も広範に、併し最も正当に、外でもない一般的に論理[#「論理」に傍点]と名づけるべきだと考える。意識の論理的機能によって初めて、意識は意識として、心理の機能を果すのである。
だがこういうと、論理と心理とを絶対的に区別しなければならないと仮定している処の、例の心理学者や論理学者は、云うだろう。なぜ一体そういうものを論理[#「論理」に傍点]と呼ぶことが出来るのか、なぜ又それを論理と呼ばねばならなくて他の名で呼んではならないか、と。併し、何故人々は論理学の教科書で教えるものだけを論理と考えねばならないのか。優れた芸術家に於ては、感覚(センス)――感情――はそれ自身の内部的な形成力によって必然的な一義的な作用連関の構造を張るのだし、政治的実践家の優れた者は、意志活動の無限な諸作用の内に、同じく一義的で必然的な連関を見出すのである。この連関が例えば数学的直観に於てのように一義的で必然的であるという事実は、理論的な諸作用の連関の場合と、少しも異るものではない。こうした構造形成力の必然性が吾々の謂う論理[#「論理」に傍点]である。――もし意識を知情意に三分するのが便宜だとすれば、単に知識ばかりではなく、感情や意志も亦それぞれの形態の論理[#「論理」に傍点]によって初めて感情や意志として機能することが出来る。ただ知識は、理論は、この論理を特に――概念的なものとして――自覚出来るが故に、特に特徴的に論理的・概念的だと考えられるに過ぎない。所謂[#「所謂」に傍点]論理――知識や思惟や理論に於ける論理――は、生きた本当の、而も日常吾々が夫を使って生きている、論理の特殊な一現象形態に外ならない。――論理とは外でもない意識の骨髄であり精髄なのである。
(論理は併し単に意識[#「意識」に傍点]の骨髄・精髄であるばかりではない、そうあることは実は更に根本的には、論理が存在の必然的な構造[#「存在の必然的な構造」に傍点]に外ならないことの一つの結果に過ぎないのである――後を見よ。)
実際、心ある心理学者乃至論理学者其他によって、論理と感情乃至意志との関係は、可なり重大な注意を払われている。T・リボーが論理の内に於ける感情の役割を見出した(『感情の論理』)ことや、G・タルドが論理の内の意欲の作用を指摘したこと(『社会的論理』)は、その代表的なものであるが、P・ラピーやT・リップスの仕事も見遁すことが出来ない*。H・ロッツェが元来情意の対象と考えられていた価値[#「価値」に傍点]を、論理的判断――論理的価値判断――の対象と見たことも今云った点から注意されねばならぬ。――かくて、これ等の人々によれば、ともかくも論理は単なる――理論的なものに限られた――論理ではなくて、感情の・意欲の・論理にまで、即ち一般に意識のかの三つの部面の全体を支配する処の論理にまでも、普遍化される。
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* 〔P. Lapie, Logique de la volonte'〕 及び 〔Th. Lipps, Fu:hlen, Wollen und Denken〕 を参照せよ。なおG・ル・ボンの諸著述は集団意識の論理を取扱っている(例えば Les Opinions et les Croyances)。――だが何よりも有名なのはヘーゲルの所謂「思惟」――吾々は之を論理と解釈して好いのだ――である。彼によれば一切の意識内容は思惟によって貫かれている。処が人々はヘーゲルのこの考え抜かれた思想を、往々浅墓な意味に於ける没論理主義[#「没論理主義」に傍点]として片づけるのである。
[#ここで字下げ終わり]
少くとも意識[#「意識」に傍点]は、以上のように考えられるのでなければ、統一ある立体的な構造物として理解されることが出来ない。そしてこういう立体性を与えるものは、広義のそして又根本的な意味に於ける論理[#「論理」に傍点]だったのである。論理の方から云っても亦、少くとも以上のように考えられなければ、内容のない形式論理学[#「形式論理学」に傍点]の埒外へ一歩も出ることが出来ないだろう。――イデオロギーの心理学[#「心理学」に傍点]とは、だから外でもない、イデオロギーの論理学[#「論理学」に傍点]を中心として帰趨するものである。だが夫がもはや単に心理学に止まることが出来ずに論理学でなければならない理由は、寧ろこれから後に出て来る。それはこうである。
意識は――前に述べておいたように――存在に就ての意識でしかなかった、意識内容は存在の反映なのであった。処が存在の構造[#「存在の構造」に傍点]を吾々は、最も一般的に――先に述べたよりも更に一般的に――論理[#「論理」に傍点]と呼ばねばならない理由がある。それは今述べよう。仮にそうとすれば意識の統一・立体性を与えるものが論理でなければならないということは、実は極めて当然なことではなかったろうか。存在の――必然的な――構造としての論理が、意識の構成力としての論理となって、反映するに過ぎないのである。
では存在の必然的な構造が何故論理であるか。存在としての存在・存在それ自体・の構造は、それだ
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