初めてAとBとは、内容的にイデオロギー[#「イデオロギー」に傍点]の資格を得る。イデオロギーという概念は単に一定の(イデオロギーと呼ばれる)現象を総括して命名するだけの言葉ではなくて、そうすることによって同時に、この現象内の個々の場合の区別[#「区別」に傍点]をも云い表わす処のものでなければならない。丁度個人という概念が人間一般を指し示すばかりではなく、それによって個人と個人との区別をも意味するように。
それ故イデオロギーは、単に社会上部構造の諸段階によって区別されるばかりでなく、それぞれの段階のイデオロギーの対立[#「対立」に傍点]を同時に指し示さねばならぬ。――イデオロギーは実際、社会上部構造が歴史的に経て来たイデオロギーの諸形態[#「諸形態」に傍点]を意味し、従って又それぞれの時代に於ける社会で対立している諸形態[#「諸形態」に傍点]のイデオロギーを意味する。イデオロギーはこの意味に於て、イデオロギー[#「イデオロギー」に傍点]一般であると共に、又イデオロギー形態[#「イデオロギー形態」に傍点]ででもなくてはならない。
上部構造一般としての、即ちイデオロギー一般としての、イデオロギーは、歴史的社会の何時の時期にも必ず意味を有つ存在でなければなるまい、意識を有たない社会は存在し得ないからである。だがイデオロギー形態としてのイデオロギーは、或る一定の社会条件の下では対立物として対立しないと考えられるならば、その時にはもはや意味のない概念となるだろう。一種類しかイデオロギーのあり得ない――そうした理想的な――社会に於ては、イデオロギーの諸形態[#「諸形態」に傍点]という概念は意味を失って了う。――で、イデオロギーとは、イデオロギーという一つのものが、幾つかの対立物に分裂し、そして又その対立が一つのものにまで解消することを理想とする、そういう弁証法的な概念である。ここにイデオロギー概念の一切の諸特性が潜んでいる。
唯物史観によれば社会の下部構造――生産諸関係――は経済的搾取関係によって特色づけられる。要するに余剰価値乃至利潤の追求がこの下部構造を規定する。だからこの経済的[#「経済的」に傍点]関係と直接に結合している社会的[#「社会的」に傍点](その限り又政治的)関係としては、社会階級の対立[#「社会階級の対立」に傍点]が結果する。その意味に於て社会の下部構造は初めから階級対立によって特色づけられていたわけである。そこで、こうした下部構造の上に――直接に又間接に――立つ筈であった社会上部構造(イデオロギー・イデオロギー形態)は、階級性[#「階級性」に傍点]によって性格づけられざるを得ない。イデオロギーは今や実は階級イデオロギー――階級的世界観[#「階級的世界観」に傍点]・階級意識[#「階級意識」に傍点]である。イデオロギー諸形態の対立は、階級性による対立だったのである*。
[#ここから2字下げ、折り返して3字下げ]
* 実際殆んど凡ての場合イデオロギーとは政治的な概念である。それは革命の意識[#「革命の意識」に傍点]と関係づけられて理解される場合が多い。
[#ここで字下げ終わり]
無論イデオロギーという概念を人々は勝手に都合の好いように規定することは出来る。例えば生物学的本能に動機されて一定形態の観念を持つ時、その観念はイデオロギーと呼ばれることも出来る[#「出来る」に傍点]。そういう可能性はそして無論決してそのものとして誤りではあり得ない、可能性とは誤りでないということの証拠であろう。だが誤っている点は、イデオロギーをこういう風に規定することが、全く部分的な見解でしかないということを知らない点である。イデオロギーの概念を統一的に組織的に把握するものは唯物史観の外にはないが、その唯物史観によれば、イデオロギーとは終局に於て階級イデオロギー[#「階級イデオロギー」に傍点]の外ではないのである。色々のイデオロギーがあるのではない、そしてその内の一つのものが階級[#「階級」に傍点]のイデオロギーなのではない、凡てのイデオロギーが階級イデオロギーに帰着[#「帰着」に傍点]しなければならない、と云うのである。
階級は併し社会の全体ではない、それは社会の部分にすぎない(但し大事なことは夫が社会に於ける単なる部分ではなくて対立的な部分だということなのだが)、そうすれば階級イデオロギーは、即ち又イデオロギーは、社会全体を代表する観念ではなくてその一部分をしか代表しない観念となるだろう。一応そうである。でそうすればイデオロギーは決して社会全体に対して通用出来ないもので、夫は自分が代表する一つの階級にしか通用しない、ということになりそうである。それは階級の利害――併しそれは要するに個人主観[#「主観」に傍点]の利害である――に動機される処の階級的偏見[#「偏見」に傍点]でしかない、夫は階級の主観性[#「主観性」に傍点]から来る虚偽意識[#「虚偽意識」に傍点]に外ならぬ、人々はよくそう云うのである。――だが無条件にそうなのではない、或る場合には、そうであるが、他の場合にはその正反対でさえある、ということを今注意しよう。
階級は社会の単なる部分ではなくて、対立的[#「対立的」に傍点]な部分である。二つの階級が並立していて、之を総括するものが社会だと考えてはならぬ(社会学者[#「社会学者」に傍点]はそういう風にしか考えないかも知れないが)。二つの階級が対立していて、この対立物の張り合いが――現在の――社会の内容をなしているのである。だから二つの階級を精々「公平」に較べて見ると、夫々が全体社会[#「全体社会」に傍点]を代表し又は夫にとって変ろうと欲している。二つの部分[#「部分」に傍点]が夫々全体[#「全体」に傍点]であることを要求する。ブルジョアジーは社会全体がブルジョア社会に止まることを欲するし、プロレタリアは社会全体がプロレタリアの独裁下に立つことを要求する、であればこそ初めて、二つの階級は対立[#「対立」に傍点]するのである。袋の中の二つの球は――仮に衝突したり摩擦し合ったりしても――まだそれだけでは対立してはいない、単に並存しているに過ぎない。
「公平」に観てもそうなのであるが、実在は決して道徳的俗物の欲するように公平ではない。存在は傾向[#「傾向」に傍点]を、運動方向[#「運動方向」に傍点]を、必然的な勢[#「必然的な勢」に傍点]を、有ってしか存在でない。で二つの階級の存在も亦決して「公平」に考えられてはならぬ。抑々社会の運動の必然的傾向・必然的方向を発見すること自身が、唯物史観の目的であった。そしてその為に階級[#「階級」に傍点]という範疇が必要となったのである。唯物史観は決して「公平」な理論ではない。――で、唯物史観によれば、階級社会はプロレタリアの階級が、ブルジョアジーの階級と対立することを通じて之を克服することによって、初めて真に社会としての社会に――階級なき社会に――まで進歩することが出来る。二つの階級の夫々の歴史的役割はだからすでに明らかではないか。
プロレタリアの階級は進歩的な階級である、と云うのは、この階級がブルジョアジーの階級に対して歴史的優位[#「歴史的優位」に傍点]を持つというのである。
だがこの階級の歴史的優位はそれだけでは今の場合まだ何物でもない。階級[#「階級」に傍点]のこの歴史的優位[#「歴史的優位」に傍点]が階級イデオロギー[#「イデオロギー」に傍点]のイデオロギー的[#「イデオロギー的」に傍点]優位として現われない限り、今の場合の問題にはならない。処で実際この階級の歴史的優位は、この階級の――主観的な――利害の追求が終局に於て社会自体の――客観的な――利害に一致すると云うこと、それが自己の実践[#「実践」に傍点]及び観念[#「観念」に傍点]の客観的可能性[#「客観的可能性」に傍点]と一致すること、によって示される。だからこの階級の階級イデオロギーは又、この階級の――主観的な――利害に相応することによって又社会自体の――客観的な――利害に一致し得ることがその特色となる。主観的な意欲が客観的な条件を充たすのである。だがそういうことが取りも直さず、真理[#「真理」に傍点]ということではないか。之がこの階級のイデオロギーのイデオロギー的優位[#「イデオロギー的優位」に傍点]である。それはもはや階級的偏見[#「偏見」に傍点]や階級の主観性[#「主観性」に傍点]から来る虚偽意識[#「虚偽意識」に傍点]などではない、却って正に之こそが、生きた真理意識[#「真理意識」に傍点]なのである。
イデオロギーが虚偽意識となるか真理意識となるか、主観的偏見であるか客観的な洞察であるかは、全く、それが如何なる階級[#「階級」に傍点]のイデオロギーであるかから決定されて来る。歴史的社会の範疇である階級が、意識の論理的範疇である真理・虚偽の決定者だったのである。――歴史的社会的存在[#「歴史的社会的存在」に傍点]は論理[#「論理」に傍点]を決定する*。
[#ここから2字下げ、折り返して3字下げ]
* 私はこのただ一つの一般的な命題を証明するために『イデオロギーの論理学』(鉄塔書院)【本巻所収】を書いた。
[#ここで字下げ終わり]
一方の階級イデオロギーに立てば――主観的及び客観的利害の意識を通じてさえ――真理が発見されるのであり、之に反して他方の階級のイデオロギーに立てば真理は――主観的利害の意識などに妨げられて――蔽い匿されて了う。真理と虚偽との中から真理を選択させるものが、プロレタリアの階級意識[#「階級意識」に傍点]なのである。階級性[#「階級性」に傍点]が真理[#「真理」に傍点]を選ばせる。――だが、そうは云っても階級性そのものが真理を成り立たせるのではない、客観的[#「客観的」に傍点]真理は主観的[#「主観的」に傍点]な階級性を超越して通用しなければならない。尤もそう云っても、単純に機械的に、真理は客観的でなければならず之に反して階級は主観的に過ぎないなどと、考えることは許されない。問題は、主観的な階級が或る場合何故客観性[#「客観性」に傍点]を有つことが出来又有たねばならぬかということの、具体的な弁証法的な理解にあるのである(例えば自然弁証法に於て、自然[#「自然」に傍点]の客観性と階級[#「階級」に傍点]の主観性とを無媒介に対立させて、之かあれかを問うことなどは、独りよがりな饒舌家がしそうなことである)。
(プロレタリア)イデオロギーの――主観的な――階級性[#「階級性」に傍点]が論理上の客観性[#「客観性」に傍点]を持ち得また持たねばならぬということは、社会の持つ歴史的必然性[#「歴史的必然性」に傍点]からの直接な結果に外ならない。歴史的社会がその内的必然性によって是非ともかくかくに運動せねばならぬという関係それ自体の構造が、実はやがて真理というものの構造に外ならない。歴史的社会にこの歴史的必然性があるからこそ、それは自然史的[#「自然史的」に傍点]に分析されることも出来る。所謂「歴史的必然性」とは、一種の自然必然性[#「一種の自然必然性」に傍点]に外ならない。
でイデオロギーの真理性は、歴史的社会の――一般的に云えば併し自然[#「自然」に傍点]の――必然的運動機構の、反映だったのである。この反映を実現する手段として、階級が、階級性が、横たわる。云うまでもなく、この階級乃至階級性の媒介過程は、イデオロギーが歴史的社会に就いての意識であるか、それともより根源的な所謂自然に就いての意識であるかによって、その段階を異にする。自然科学のイデオロギー性に於ける階級性は、社会科学の夫に較べて、著しく低い段階に位置する。だがそうであるからと云って、自然科学のイデオロギー性乃至階級性を苟にも無視して良いと考えるものがいるとしたら、それは知らず知らずに、自然自体に対する――例えば夫と社会との連関というような点に就いての――弁証法的理解を怠った者だと云わねばならぬ。
かくてイデオロギーは、単に社会の上
前へ
次へ
全38ページ中4ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
戸坂 潤 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング