度は逆に、社会の分析から出発して意識の分析に到着する途はないか。デュルケムの方法は一応この場合に相当する。彼の集合表象[#「集合表象」に傍点](〔repre'sentation collective〕)の概念はレヴィ・ブリュールによって展開された。集合表象と呼ばれるこの一種の社会心は、恰もル・ボンやフロイトやマクドゥーガルの群衆心理と同じく、神秘的[#「神秘的」に傍点]で前論理的[#「前論理的」に傍点]な働き方をする。例えばそれは事物を因果関係によって関係づける代りに、participation と呼ばれる一つの仕方によって結合する。だが之等の人々の諸概念とデュルケム乃至レヴィ・ブリュールの社会心――集合表象――の概念との相違は、前者が単に云わば心理学的乃至結局は形式社会学的であったに対して、後者が特に歴史的だという点にある。と云うのは、後者は、歴史的に云って吾々文明人に先だつ処の原始民族が、実際に有っていた表象の仕方であることを実証される処に、そのアクセントを有つ概念なのである(無論この実証はこの歴史の反覆物としての現在[#「現在」に傍点]の未開人や小児に就いて行われるのであるが)。それはもはや単なる群衆や集団の意識――表象――ではなくて第一に未開人――この歴史的社会的存在――の有つ表象であったことを忘れてはならないように出来ている。この意味で、従来の社会心の諸概念に較べて夫は著しく歴史的特色を担ってはいる、それは原始民族という現実の社会的存在[#「社会的存在」に傍点]から出発して得らるべき概念なのである。それだけこの社会心――集合表象――の概念は、仮空的でなくて現実的ではある。だからそれだけそれは合理的に説明されることも出来るわけである。実際、例えばマクドゥーガルの単に心理学的な集団心の概念――それは実は国民[#「国民」に傍点]を説明するための準備なのだが――が至極不合理であったに較べて、これは遙かに合理的な説明を与えられることが出来る。集合表象は、「与えられた社会群に共通[#「共通」に傍点]であり、時代から時代に推移し、個人を強制し、個人をして場合々々によって、この表象対象に対する尊敬・恐怖・讃嘆の感情を懐かせる」ものだというように*。もはや集合心(ル・ボンの 〔l'a^me collective〕 やマクドゥーガルの group mind, collective mind)というような、個人心から独立した心[#「個人心から独立した心」に傍点]が存在するのではなくて、各個人に共通な、個人としての個人の心の機能とは異って機能する、集合表象という表象の仕方[#「表象の仕方」に傍点]が行なわれるに過ぎない。――このように説明されてこそ初めて、社会心の概念――集合心・群衆心理等々――も、一応は落ち着くべき処に落ち着くことが出来るだろう。
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* 〔L. Le'vy−Bruhl, Les Fonctions Mentales dans les Socie'te's Infe'rieures, Introduction.〕 ――序でに読者は注意すべきだ。この書物の名前が例えば社会の心理[#「社会の心理」に傍点]というようなものの研究を意味してはいずに、社会に於ける心的機能[#「社会に於ける心的機能」に傍点]の研究であることを。
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 デュルケム乃至レヴィ・ブリュールによって与えられた、原始民族の意識と文明人の意識との相異その他に就いては、今は省こう。今大事なことは、デュルケム乃至レヴィ・ブリュールによる意識の分析が、社会の分析から出発すると云う点にあるのである。それは所謂「社会心理学」と方向を反対にする。それであるからこそ却って初めてここで、社会心理学が本来目指していた問題が、一応無理なく――その深浅は別として――解かれることが出来る。ブルジョア社会心理学の泥濘から抜け出す道が茲に横たわっている。――で、吾々はこの実証主義的社会心理学を批判することによって、吾々の社会心理学[#「吾々の社会心理学」に傍点]――イデオロギー論――にまで抜け出ることが出来るだろう。

 実証主義の精神は常に、或る意味に於て歴史的である。それは歴史的予見のために知識を追求するのを目的とする。だが又それは、他方に於て、原因[#「原因」に傍点]の概念を用いて歴史的運動を説明[#「説明」に傍点]すること――これは実証主義者によれば一括して形而上学的と呼ばれる――を却ける。事物の諸現象は単に記述[#「諸現象は単に記述」に傍点]さるべきであり、理論はただこの諸記述の中から一定の諸法則を抽出しさえすれば好い。この場合必要になる研究方法は、おのずから、比較的方法[#「比較的方法」に傍点](comparative method)であらざるを得ないであろう。併し比較法とは、実は却って現象の単純な反覆性を仮定している、もし現象が単純に等質的に[#「単純に等質的に」に傍点]繰り返さなければ、――尤もどのような現象でも何かの意味では反覆する――、現在存在する現象の比較の結果を、過去の現象にまで及ぼして結論することは出来ない筈である。実際主義――比較的方法――は歴史の単純な反覆性を仮定する。それによればコントの歴史三段階説にも拘らず、歴史の本質である発展の質的飛躍[#「質的飛躍」に傍点]――歴史の段階的展開[#「段階的展開」に傍点]――は実は存在しない。歴史は実証的段階に入るや此の段階的展開を閉止する、実証的段階は不動で永久でなければならぬ。実証主義の社会学は、他の社会学乃至社会心理学に較べては、社会現象に於ける時間[#「時間」に傍点]の要因を一応見遁さない点で、歴史的ではあるのだが(これはサン・シモンやコント等のぞくしていたブルジョアジーの一時的な進歩性を言い表わす)、その歴史が結局――ブルジョアジーのその後の反動性と共に――非歴史的なものとしてしか把握されない。だから社会は結局非歴史的なものとしてしか把握されず、即ち社会は非社会的なものとしてしか把握されない(第五章を見よ)。デュルケム乃至レヴィ・ブリュールの社会心理学は、他のブルジョア社会心理学とは反対に、意識の分析からではなくて社会の分析から出発したが、折角のこの社会が非社会的――非歴史的――にしか掴まれていなかったわけである。実証主義的社会心理学は、だから、社会の分析から出発するという方法を、徹底することが出来ない。それは正当に社会を分析し得ないのだから。ここでも社会はブルジョア社会としてしか、又はブルジョア社会を標準としてしか、理解されていない。
 社会のこの分析が正当でないことは、デュルケムの社会学主義[#「社会学主義」に傍点]の精神の内にも見出される。それは人間的諸事物を、自然や観念の概念を用いて解明する(自然主義・観念論)代りに、正に社会的存在として之を解明する企てであるが、それは無論好いとして、処がこの社会が飽くまで社会プロパーに止まっていて、――ブルジョア社会は永久化されて社会プロパー[#「社会プロパー」に傍点]となる――経済的な原因にまで掘り下げられて分析されていないという、盾の半面を持っている。夫は所謂――この概念を吾々は決して承認しないのだが――経済主義に対立する意味に於ても亦社会学主義[#「社会学主義」に傍点]なのである。だからデュルケムの社会学は――而も夫は一つの世界観・哲学に名づけられるに値いするが――、社会の物質的基底(物質的生産関係)の分析から出発しないで、多少ともそれが社会プロパー[#「社会プロパー」に傍点]化された処の中途の段階から出発する。分業[#「分業」に傍点]の概念などが之に外ならない(分業論はブルジョア社会学の最も得意とする業績である)。実際ブルジョア社会的に理解された社会は、分業の進歩によってでも進歩する外に変化の仕方を有てないだろう。
 吾々の[#「吾々の」に傍点]社会心理学は、意識の分析を、社会の分析から始めねばならない。而もこの社会の分析は、所謂社会関係からではなくて経済関係(物質的生産関係)の分析から始められねばならない。そうしないと、社会は根柢的に解明出来ないのである。こうすれば社会は初めて、歴史的発展段階[#「歴史的発展段階」に傍点]を有つ一つの生命過程として合理化される。こういう社会の分析から出発して初めて、意識の問題は正当に解かれることが出来る。――吾々は実は、初めからこういう立場に立って語って来た、そのために吾々は予め、プレハーノフを引用してかかったのである。

 そこで吾々はもう一遍、社会人の心理[#「社会人の心理」に傍点]乃至イデオロギー[#「イデオロギー」に傍点]の概念を取り上げよう。
 吾々の社会分析の結果を仮定すれば、社会は、物質的生産関係の物質的・内的・矛盾からして、階級社会を結果する。但し一つの社会という容器の中に幾つかの階級が存在するとか、又は幾つかの階級が社会部分をなすとか、云うのではない。一社会が諸階級のどれか一つによって代表されるべく置かれていると云うのである。一つの社会に対して、この階級か又はそうではなくて[#「又はそうではなくて」に傍点]他の階級かが、自己同一化されねばならない。この際無論二つのものは相互に排撃せざるを得ない。だから、階級社会とは階級対立社会[#「階級対立社会」に傍点]――階級闘争の社会[#「階級闘争の社会」に傍点]――の外ではない。同語反覆的にそうなのである(だから幾つかの諸階級も二つの対立階級に集約される)。――さて、社会が階級をその性格とするから、社会人の心理も亦、階級によって性格づけられねばならない。吾々の見て来た最後の方法から云って之は必然的である。意識はまず第一に階級意識[#「階級意識」に傍点]――又は階級心――として性格づけられ、そういうものとして分析されなくてはならないのである。意識はそういう意識形態[#「意識形態」に傍点]として、一種の意味でのイデオロギー[#「イデオロギー」に傍点]と見られなくてはならない(吾々は意識形態としてのイデオロギーと文化形態としてのイデオロギーとを区別する。社会人の心理――階級意識――は今、前者の意味に於てイデオロギーだと云うのである)。
 階級意識の分析で最も眼立たしいのは処で、G・ルカーチであろう。だがルカーチによる階級意識とは何であったか。それは生産過程の一定の典型的な情勢に帰属せしめられる処の合理的に適合されたる[#「合理的に適合されたる」に傍点]、生産過程の反作用である。と云うのは、階級意識とは、決して、個々のプロレタリアの心理的意識でもなければ、プロレタリア全体の集団心理学的意識でもない、階級の歴史的情勢が意識された処の意味[#「意味」に傍点](Sinn)なのである。それは無論単なる擬制ではない。併しそうであるからと云って何等心理学的実在性を有つものでもない。それは実際にプロレタリア個人によって意識された意識ではなくて、プロレタリア個人によって意識されるべきである処の――実際はまだ意識されていない――「客観的な可能性」に外ならない。この客観的可能性に過ぎない階級意識を事実として現実化することによって初めて、世界の経済的危機の実践的解決も可能になる、と云うのである*。
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* 〔G. Luka'cs, Geschichte und Klassenbewusstsein, S. 62―3, 86―8, 92 etc.〕
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 だからルカーチに従えば、階級意識とは、要するにプロレタリアがもつ現実[#「現実」に傍点]の意識ではなくて、あるべき理想的な意識である。それは心理的な実在[#「心理的な実在」に傍点]から独立に理解された論理的な意味[#「論理的な意味」に傍点]の世界である。意味とはリッケルト達に従っても、成程仮構物ではないがどのような点でも存在[#「存在」に傍点]ではない。この新カント主義の意味論がマックス・ヴェーバーを通ってルカーチ
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