る原因が横たわる。だが群衆の現象が催眠現象と異る処は、夫が個人の他の諸個人に対する同一視[#「同一視」に傍点](Identifizierung)を加えているという点である。と云うのは、一つの集団内の各個人は、オイディプス錯綜に於ける嫉妬の対象たる父を意味する処の、指導者・指揮者・将軍・長老等に取って替わる代りに(それが結局許されないから)、せめて自分を之と同一視して満足しようとする。これはやがて各個人間の同一視を容易に結果する。ここに集団[#「集団」に傍点]が――人工的な永続する群衆(例えば軍隊や教会)が――成り立つというのである。集団乃至群衆はリビドーによって成立する。それは原始的な性的欲望の一つの満足形式に外ならない、それはその限り原始時代への退行[#「退行」に傍点]を意味する。群衆が原始人の意識状態に帰り、又時としては反社会的・犯罪的・行動に出勝ちなのは、ここから説明されることが出来る。――フロイトはこうしてル・ボンの群衆心理学に一つの説明原理を補足する。
 フロイトによれば、群衆は、集団は、従ってやがて又社会は、愛着や催眠の延長である。群衆・集団・社会の生命の本質はリビドーと名づけられる根本的な一欲望に過ぎない。――ル・ボンの観念論的歴史観(乃至社会観)は、フロイトの群衆心理学によって、誠に遺憾なく、観念論的に補足[#「補足」に傍点]されたのを見ないか。だが一般にフロイト主義が個人心理学的方法による処の、即ち意識の分析から出発する処の、理論であった限り、群衆心理学に於けるこの不始末は初めから必然的であった。

 吾々は社会心理学[#「社会心理学」に傍点]を一般的に語って来ながら、ル・ボンとフロイトとの研究を通じて、何時の間にか、群衆心理学[#「群衆心理学」に傍点]の問題に来て了った。実際、群衆心理学(又は集団心理学[#「集団心理学」に傍点])は、無論社会心理学の凡てではないが、その中心をなしている。
 だが茲でも亦吾々は群衆(乃至集団)心理学なるものの科学的意図を検閲しなければならない――社会心理学の場合と同様に。夫は無論群衆乃至集団の心理学である、併し実はただそれだけではない。多くのそれは、群衆乃至集団を本質から云って第一義的に心理的[#「心理的」に傍点]乃至精神的[#「精神的」に傍点]なものと仮定し、そしてそこで初めて之を心理学的に記述又は説明しよう、という意図を有っているのである。全く、都合の好いような仮定に基けば、都合の好い説明を下すことは容易だろう。併し一般に社会がそうであるように、群衆乃至集団の本質は、第一義的に、決して心理的乃至精神的なものに求められてはならない*。何故なら、例えば階級――之は少なくとも一つの集団である――の本質は階級意識にあるだろうか。もしそうならばプロレタリアはプロレタリア的階級意識さえ持たなければ、貧乏[#「貧乏」に傍点]しないで済む筈ではないか。――それにも拘らず、社会心理学者達は、群衆心理学乃至集団心理学に於て、群衆乃至集団に心的[#「心的」に傍点]――心理的乃至精神的――本質[#「本質」に傍点]を発見する。群衆心[#「群衆心」に傍点]又は集団心[#「集団心」に傍点](group mind)なるものがこの本質の――この実体[#「実体」に傍点]の――名なのである。
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* 群集[#「群集」に傍点](Masse)は単なる群衆[#「群衆」に傍点](crowd)であるばかりではなく又大衆[#「大衆」に傍点]をも意味する。そして大衆は必ずしも単なる集団(group)と一つではない(拙稿「科学の大衆性」――『イデオロギーの論理学』【前出】の内――を見よ)。crowd と group との区別はマクドゥーガルによって与えられた(The Group Mind, p. 21 ff.)。一体 Masse の概念は従来あまり正しく分析されていないように見える。例えば G. Colm, Die Masse (Archiv f. Sozialw. u. Sozialpolitik. 1924) がその一例である。
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 社会心理学は群集(乃至集団)心理学に集中されると云ったが、群衆(乃至集団)心理学の問題は更に、集団心[#「集団心」に傍点](乃至群衆心)の問題に集中される*。W・マクドゥーガルは茲で代表的な位置を占めている(The Group Mind, 2 Ed. 1926**)。
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* 「集団心[#「集団心」に傍点]という言葉が技術上不都合であるにしても、この言葉によって示される領域の研究は進捗しつつある。そしてそれが普通社会心理学と呼ばれる処のものの中心で最も本質的な部分であることが愈々益々認められて行くだろう。」(McDougall, The Group Mind, p. ※[#ローマ数字17、212−上−17])
** この「集団心」は社会心[#「社会心」に傍点]と一般に呼ばれるものの代表者である。社会心の概念はマクドゥーガルの集団心の外にいくらでも数えることが出来るだろう。Espinas の conscience multiple、デュルケム及び 〔Le'vy−Bruhl〕 の 〔repre'sentation collective〕(之は後を見よ)、ルソーの 〔volonte' ge'ne'rale〕, 〔To:nnies〕 の Wesenwille, ヘーゲルの Volksgeist 等々(M. Ginsberg, The Psychology of Society, 1921 参照)。
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 処でマクドゥーガルの集団心の概念は、その構成の過程に於て一つの無理を有っている。彼によれば社会的集団は一つの集合的精神生活[#「集合的精神生活」に傍点]を営むものであるが、これは、その社会に属する個人が単なる個人として営む精神生活の総和以上のものでなければならない。処で社会はマクドゥーガルによれば単にこの集合的な精神生活を営むばかりではなく、それ故に又一つの集合心[#「集合心」に傍点](collective mind, collective soul)を有つ[#「を有つ」に傍点]ものと考えられて好い、と云うのである。之が集団心の概念なのである。で問題は、社会が――個人がではない――有つ処の心という概念がどうして許せるかに存する。それは云うまでもなく個人の心で尽きない処の、超個人的な心[#「超個人的な心」に傍点]であるが、一体吾々はそういう「心」を考えることが出来るか。マキヴァーはこの点に就いて鋭い批判を加えている*。彼に従えば心の主体である個人の二人の間に生じる心的関係は決して二人の心を含む独立した「心」という性格を有つことは出来ない。もし仮に夫が心であるならば、二人に共通な一つの心は、例えば教会の有つ心の部分でなければならず、教会の有つ心は又国民の有つ心の一部分でなくてはなるまい。かくて多くの心と心が相互に喰い込むことが出来ることになる。処が心――個人の――の特色は銘々が独立の体系の主体であって相互に喰い入ることの出来ないものだという処に横たわる。だのに二人の間の心理関係はそういう特色を有ってはいない。それは心であることが出来ない。集団心の概念は、単に、個人の心が周囲の社会的環境によって支配されるという事実を、極端な言葉で云い表わしたものに外ならない。それだのにマクドゥーガルは、個人の心の外に[#「外に」に傍点]、集合心乃至集団心が存在するかのように考えている。こういう心の概念は成り立つことが出来ない。そう云ってマキヴァーは攻撃する。――無論マクドゥーガルは心が常に個人によって所有される処のものに外ならないことを忘れない。だが彼は一方に於て心を至極広い意味に、そして集団心の概念を許すのに都合の好いように、定義[#「定義」に傍点]する**。彼によれば特に、心の構造[#「構造」に傍点]と機能[#「機能」に傍点]とは区別されねばならない。心の構造は個人の心にぞくするが、その機能は必ずしも個人心理的なものには限らない、集団心は個人の心によって所有されるには違いないが、なおそれとは独立に、夫は一つの実在性[#「実在性」に傍点]を有っている、とマクドゥーガルは考える***。――だが、このような集団心の実在性[#「実在性」に傍点]――実体性[#「実体性」に傍点]――に就いては、マクドゥーガルの弁明にも拘らず、人々は依然として、合理的な概念を有つことが出来ないだろう。
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* R. M. Maciver, Community, p. 76―88.
** 「吾々は心を、精神的乃至目的的諸力の組織的体系として定義して好い。こう定義された意味に於ては、高度に組織された人間社会が集団心を有つ、ということが出来る。」(McDougall, Psychology, p. 229)
*** 「で、集団心の実在性を仮定するのは、独り私ばかりではない。」(McDougall, The Group Mind, p. 19)
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 集団心の概念構成がこのように無理であることは、この概念が個人心の概念と区別されるにも拘らず、飽くまで夫が個人心[#傍点]から区別された限りの[#傍点終わり]、即ち個人心から出発して構成された限りの、心の概念だからである。実際、心[#「心」に傍点]の概念であるならばそうある外はないだろう。――吾々の言葉に直して云うならば、集団心とは、個人の意識から出発して初めて個人の意識から区別された処の意識概念、即ち個人的意識[#「個人的意識」に傍点]の概念、の一つの場合に外ならない。それが個人的意識の概念にぞくしながら、それにも拘らず超個人的な――集合的な――性格を有たねばならなかった処に、この概念の無理があったのである。実際マクドゥーガルは、集団心の研究があくまで個人心理[#「個人心理」に傍点]の研究から出発すべきであることを、特に強調することを忘れない。――だからこそ彼による集団心の概念が、あのように曖昧であらざるを得なかったのである。
 マクドゥーガルの社会心理学――群衆心理学乃至集団心理学・集団心の理論――は、吾々が見た之までの他の諸社会心理学と同じく、社会の分析から出発する代りに、意識の――無論其が個人的意識の――分析から出発する*。――之は観念論的社会理論の部分的な一結果に過ぎない。
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* この点で、マクドゥーガルはフロイトと全く一致する。実際、マクドゥーガル自身の云う処によるとフロイト主義に於て錯綜(Komplex)と呼ばれたものは、マクドゥーガルの心理学に於ける Sentiment の概念と一致する。
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 さて集団心[#「集団心」に傍点]の概念が困難である限り、之を中心とした群衆心理学[#「群衆心理学」に傍点]の問題も、人々は解くことが出来ない。処が夫が解けなければ、群衆心理学を中心とする限りの社会心理学[#「社会心理学」に傍点]の問題も亦解けない。意識――それはこの場合常に個人意識の従って又個人的意識の概念である――の分析から出発する限り、社会の心理学的分析は出来ない。そういうことが今指摘された。ブルジョア科学に於ける、所謂社会心理学[#「社会心理学」に傍点]は、自ら掲げる問題を解くことが出来ない、所謂社会心理学は社会心理学ではあり得ない[#「あり得ない」に傍点]。――だから今までの結果から吾々はこう結論することが出来る。ブルジョア的社会心理学によっては、かの社会人の心理[#「社会人の心理」に傍点]乃至イデオロギー[#「イデオロギー」に傍点]――夫が社会と意識との連絡点を示す筈であった――を分析することが出来ないと。

[#3字下げ]四[#「四」は小見出し]

 所謂社会心理学と呼ばれているものは、社会の分析を意識の分析から始めた。では、今
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