ノ来ているのである。階級意識は存在ではない、それは理念である、それは歴史的情勢の分析の結果[#「結果」に傍点]初めて有たれるであろう処の意識の、非現実性――理想性――を云い表わすための概念である、決して歴史的情勢の分析を動機する処の原因[#「原因」に傍点]を示すものではない。プロレタリアの有つ事実上の階級意識は歴史的情勢の分析の原因である、処がこの歴史的情勢の分析の結果初めて之に帰属せしめられねばならぬルカーチの階級意識は、誰によって有たれるのか。それは理論家――ルカーチがその一人――によってしか持たれない。理論家・インテリゲンチャの持ち得る階級意識は、プロレタリアの持っている階級意識の、理想・手本でなければならない。階級意識はもはや階級(プロレタリア)によって持たれることが出来ない、階級意識は非階級(インテリゲンチャ)によって初めて与えられる。こうなれば一体誰が主人であるのか。歴史に於ける理論・意識・インテリゲンチャの過重評価――所謂福本主義はルカーチの後裔である――はここに淵源している。
 ルカーチによる階級意識は、個人意識でもなければプロレタリア大衆(Massen)によって事実上持たれる群衆心理学(Massenpsychologie)的存在でもない。正に理論家によって持たれる処の、歴史の一つの説明原理[#「説明原理」に傍点]――仮説――に外ならない。ルカーチはこの仮説に実在性を与えようとする、無論その実在性は明晰に把握され得ない、だがともかくも彼は之に信頼を置く。そこで彼の歴史理論――階級闘争理論――は、階級意識[#「階級意識」に傍点]理論の単なる裏に過ぎなくなるわけである。彼によれば弁証法は歴史に於てしか、即ち又階級対立の意識に於てしか、存在しない。その限り[#「その限り」に傍点]、彼は結局に於て、歴史――社会――を意識によって説明しようとする形態を取らざるを得なくなるのである。
 ルカーチは社会人の心理・意識形態としてのイデオロギー――今は夫が彼の階級意識の概念で置き換えられたのだったが――を、個人の意識から区別しようとする余り、之を社会人の心理――例えばプロレタリアの心理――からさえ引き離して了う。かくて社会人の心理は実は何の実在性をも持てないような理論家専用の一つの作業仮説にまで浮揚する――丁度マクドゥーガルの集団心と同様に。かくて社会人の心理は、個人の心理から絶縁されて了う。処が事実は、社会に於ける個人が、社会に住むことによって持つ処の意識が、「社会人の心理」ではないのか。――吾々は個人的意識[#「個人的意識」に傍点]の概念に立て籠もることは之を却ける、それは個人意識[#「個人意識」に傍点]をそのまま無条件に、機械的に、同一哲学式に、社会人の心理[#「社会人の心理」に傍点]にまで移行させるからである。だが個人的意識の概念を禁止することと、個人の意識から絶縁せよということとは、全く別である。社会人の心理・意識形態としてのイデオロギー、プロレタリアが事実上持つ階級意識、之は社会に於ける個人の持つ個人意識(個人心理)が質的転換によって転化した処の、意識である。そして意識のこの質的転換を規定するものが社会の分析でなければならなかった。吾々は意識をこのような弁証法的概念[#「弁証法的概念」に傍点]として、――個人的意識[#「個人的意識」に傍点]の概念としてではなく――把握せねばならぬと云うのである。こう考えてこそ、階級意識も――その質的転化の歴史を溯源して――個人意識にまで主体化[#「主体化」に傍点]されることが出来るわけである。
 このようなものが吾々の社会心理学に於ける社会心[#「社会心」に傍点]――これはこれまでどの概念の下にも困難を伴った――である。このようなものが又、吾々に取って一般に、意識[#「意識」に傍点]の概念なのである。こうした意識乃至社会心を代表[#「代表」に傍点]すると考えられるものが、そして階級意識であった。夫は無論単に個人意識でもなく、そうかと云って社会理論のための作業仮説でもない。それはプロレタリアの代表的大衆[#「代表的大衆」に傍点]――無論数学的な全部や多数ではない――の個々の心理の内に、様々の水準に於て又様々の側面を示しつつ、事実上生きている*。だがそれが階級という社会的性格によって集約されるから、それは一定形態[#「形態」に傍点]――一定性格――の下に統一される。こうして集約され統一された限りの大衆の意識形態が、階級意識というイデオロギー――意識形態――なのである。
[#ここから2字下げ、折り返して3字下げ]
* L. Rudas のルカーチに対する批判はこの点で正しかった。
[#ここで字下げ終わり]
 吾々は今や、階級意識を代表的性格とすることによって、一般に意識形態乃至社会心の諸理論へ、分け入ることが出来る。茲には意識形態論[#「意識形態論」に傍点]としての(まだ文化形態論までは行かない)、イデオロギー論の多くの課題が待っている。――今は一二の例を挙げておくに止めよう。
 一、病理心理学又はフロイト主義精神分析は、吾々の社会心の概念に立って、もう一遍起用されて好いだろう。吾々は今日、個人的素質に於て非常に優れた人々が、その社会生活意識に於て病的精神状態に陥っている場合を我邦に於て相当沢山知っている。之は併し決して一個人の意識の問題として取り扱われるべきではない、それは云わば社会精神病理学的[#「社会精神病理学的」に傍点]な見地から、見られなければ解決出来ない。実際これ等の人々も、単なる精神病学にとっては全く健全な患者に過ぎないだろうから。――そして注意すべきは、之が特に宗教[#「宗教」に傍点]と密接に連絡している場合が甚だ多いという事実である(例えば大本教)。元来宗教は一つの文化形態[#「文化形態」に傍点]としてのイデオロギーであるが此処では夫が、何かの意味の宗教心理学を利用することによって、一つの意識形態[#「意識形態」に傍点]としてのイデオロギーとして、社会精神病理学的に取り扱われねばならないだろう。
 二、イデオロギーは場合によって虚偽意識[#「虚偽意識」に傍点]を意味する――前を見よ。併しイデオロギーの特色は、自分では決して夫を虚偽意識としては意識しない、ということにあるのである。その意味で、之はすでに一つの病的現象と見られなければならない。処が之は丁度無意識[#「無意識」に傍点]の問題に結び付いているのであって、この病的現象は、無意識的虚偽[#「無意識的虚偽」に傍点]なのである。吾々は之を多くのヒステリー患者に於て見ると共に、殆んど凡ゆるブルジョア・イデオローグに於て見ることが出来る。だがフロイト主義によって個人心理の奥底に動いていると考えられたこの無意識は、実は茲では、社会によって、階級[#「階級」に傍点]によって、操られている。ブルジョア・イデオローグは自分の階級性を承認しないから、自分が階級によって操られているのを見ることが出来ない。だからこそ自分の虚偽に就いて無意識なのである*(無意識的虚偽は虚偽なイデオロギー――文化形態としての――の体系を真理として打ち建てる、それは丁度、脳梅毒の強迫症の患者が、自分の恐怖の原因を梅毒に帰する代りに、恐怖の対象物に帰するような体系を打ち建てると変らない)。
[#ここから2字下げ、折り返して3字下げ]
* 拙稿「無意識的虚偽」(『イデオロギーの論理学』【前出】の内)を見よ。
[#ここで字下げ終わり]
 三、以上の二つに連関して、規範性[#「規範性」に傍点](〔Normalite'〕)の問題が生じる。吾々による価値論――価値意識の理論――は、この病理学的・犯罪学的・道徳学的な規範性の概念にまで結びつけられなければならないだろう。
 其他々々。併し大切な点は、社会心に就いてのこれ等の諸課題が、階級意識を中心として取り扱われない限り、纏りが付かないだろうということである。即ち之がイデオロギーの理論に立って初めて節度を与えられるだろうということである。と云うのはこうしたイデオロギーの「心理学」は、イデオロギーの論理学によって初めて骨格を与えられるだろう、ということである――第二章を見よ。

 さて吾々は最後に、意識形態[#「意識形態」に傍点]としてのイデオロギーと文化形態[#「文化形態」に傍点]としてのイデオロギーとの関係へ移ろう。併しなるべく簡単に(文化形態[#「文化形態」に傍点]に就いては第三章を見よ)。
 文化――その形態としてのイデオロギー――は、もはや意識[#「意識」に傍点]ではない。だがそれは云わば意識の客観化されたもの、意識の所産である。それは作品や設備機関に結び付いた主体であると云うことが出来る。だから夫は意識形態を媒介とすることによって説明されねばならない。そしてこのことは取りも直さず、階級意識[#「階級意識」に傍点]を媒介とすることによって説明されねばならぬということに集中する。――実際、吾々の社会心理学は外でもない、元来このような役割を果すためにこそ、用意されねばならなかった。併し階級意識を媒介として文化現象を説明することは、もはや単に何かの意識――社会意識其他――だけを[#「だけを」に傍点]説明原理とすることではあり得ない、何故なら吾々による意識はすでに、経済関係従って又政治関係――階級――を背景に持つものであったから。文化形態は意識形態から生じるが、それは後者の単なる自己同一的な延長ではなくて、後者が最も高次な或るものに質的に転化した処のものである。それは必ずしも意識形態の内には見出されなかった処のそれ特有の歴史的運動条件に従う*。それにも拘らず之は階級意識を媒介としなくてはならない。と云うのは、それは階級を原理として分類され対立せしめられ段階づけられねばならない。例えば前にも云ったように、オーストリア学派の経済学は金利生活者階級の経済学であり、それは金利生活者の社会心理を媒介とすることを通して批評されねばならなかったのである。之が文化形態論としてのイデオロギー論の根本的な一般方針であった。だがこのことは誰でも知っている。ただ多くの人々は必ずしも夫を自覚することなしに行っているか、又は意識的に行っていないと云うに過ぎない。社会心理学はイデオロギー論となることによって、初めて文化社会学にまで媒介されるのである。
[#ここから2字下げ、折り返して3字下げ]
* A・ヴェーバーは「社会過程」の床の上に横たわる二つの文化形態――精神的[#「精神的」に傍点]なる「文化」と知的な「文明」と――を区別して「文化」の歴史的発展は常に突然な創造[#「創造」に傍点]の形態を示すのだから、文化の発展に就いては統一的な原理を見出すことが出来ない、高々これを類型化[#「類型化」に傍点]すことが出来るばかりだ、と云っている(第四章を見よ)。――吾々は之と似た区別をM・シェーラーの文化社会学にも見出す(第五章)。だが文化――夫は此等の人々によれば特に精神的[#「精神的」に傍点]なものとして強調される――の運動形態が、統一的に理解出来ないのは、之をイデオロギーとして取り扱うことを知らないからに外ならない。
[#ここで字下げ終わり]
 社会と意識との関係は、今日多くの人々が持つような社会の概念と意識の概念とを用いては決して決定出来ない。吾々がもし両者の関係を見たいならば――そしてこの関係は吾々にとって最も重大な現在の問題の一つである――、吾々は社会をも意識をも、マルクス主義的範疇[#「マルクス主義的範疇」に傍点]――イデオロギー論の範疇――を用いて理解する外に道がない。なぜそうであるか、一切の代表的なブルジョア社会心理学者(乃至社会学者・心理学者)及び其他が、恐らくその優れた頭脳にも拘らず、その方法の武器が拙劣なために、社会と意識との関係を説明するのに如何に失敗したか、読者は吾々と共に、夫を見なかったか。

      ――――――――――――――――

 吾々はかくて、社会意識[#「社会意識」に傍点]の問題を文化[#「文化」に傍
前へ 次へ
全38ページ中37ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
戸坂 潤 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング