驕Bフロイト主義は、一つの意味での意識を、之とは異った意味での意識で以て、直接に無媒介に説明しようとする。その説明が見当違いで皮相なものとならなければ却って不思議と云わねばなるまい。かくてこそ文化形態も、かのオイディプス錯綜の一事例に過ぎないものとして片づけられて了うのである。――フロイト主義は、云わば社会主義的理論[#「社会主義的理論」に傍点]ではなくて個人主義的[#「個人主義的」に傍点]理論に他ならない。
 理論を個人的意識から出発させるということは併し、一般に意識[#「意識」に傍点](精神)を存在の説明原理[#「存在の説明原理」に傍点]とすることを意味する。何故なら個人的意識は、或る方向に於てもはやそれ以上還元出来ない最後の基体として、登用されるのが常であるから(例えばフッセルルの現象学的還元)。だから個人的意識の概念を採用すれば、必然的に所謂観念論を採用する結果を招かざるを得ない。そのことはすでに述べた(第一章)。この時一般に意識は説明される処のものではなくて却って説明する処のものとなる。社会的歴史的現象は意識によって――即ち個人的意識によって――説明されねばならなくなる。それは様々の観念的歴史観――今之を唯心史観[#「唯心史観」に傍点]と呼んでおこう――を結果する。フロイト主義的社会理論は恰もそのような歴史観に立った一つの場合であったことを思い出さねばならない。
 だが或る人々は、フロイト主義を観念論乃至唯心史観(そういう言葉を許すとして)と考えることに反対するかもしれない、フロイト主義こそ、意識に関する唯物論でなければならない、というかも知れない*。併しそう云われる理由は、単に、フロイト主義による意識(精神)――夫は個人的意識であったことを忘れるな――が生理学的[#「生理学的」に傍点]根拠に立って把握されているからというに外ならない。実際フロイト主義による意識(精神)の概念は、多くの哲学者達の夫とは異なって、生物学[#「生物学」に傍点]的背景を有つことをその特色としている、意識(精神)は生物学的衝動リビドー=エロスと裏表にあざなわれていた。併しながら意識乃至精神を唯物論的に取り扱うことは、これを単に生理学や生物学に結び付けることではない(それならば要するに十八九世紀の仏独の機械論的唯物論にすぎず、従って夫はまだ正当な唯物論ではない)、そうではなくて更に之を社会の物質的地盤[#「社会の物質的地盤」に傍点]にまで結び付けることでなければならない。物質的生産力乃至生産関係――経済関係――に結び付けられて初めて、意識(精神)は真正の意味での唯物論的取り扱いを受けたことになる。歴史はこの生産関係の内部的必然的発展に基づいて初めて統一的に発展段階を与えられるが、意識乃至精神も亦、社会のこの物質的地盤に結び付けられて理解されることによって、同時に歴史的[#「歴史的」に傍点]なものとして把握されることが出来る筈なのである。処が之を単純に生理学的・生物学的基礎に立たせることは、却って意識(精神)――又生命――を歴史的なものとして理解することを妨げる。なる程フロイト主義によれば、精神(生命)を強制するところの社会は、一応云うまでもなく歴史を有つと考えられていないのでないが、その歴史性自身が物質的地盤から独立して抽象化されているから、観念的なものになって了っている。歴史が云わば生命自身に喰い入った処のものとも云えよう遺伝[#「遺伝」に傍点]――これはフロイト主義で重大な役割を有っている――であっても、全く生物学的範疇の外へ出ない偽似の歴史性を持つに過ぎない。まして人間の衝動は、かりに夫が永久不変なものではないと考えられても、まだ何の積極的な歴史性を有つものでもない。――だからフロイト主義の所謂唯物論は、社会の物質的基礎を抜きにし従って歴史性を結局に於て無視する処の、生物学主義[#「生物学主義」に傍点](Biologismus)に外ならない。コルナイはフロイト主義の社会分析を、デュルケムのそれと平行させ、前者は社会のイデオロギー的部分を説明することによって、後者の社会理論を補うものだと主張しているが、かりに夫が正しいとして、このデュルケムの社会理論自身が、恰も今云った意味に於ける――他の意味に於てはそうでないにしても――生物学主義に外ならない。――フロイト主義は唯物論ではない、単に生物学主義なのである。
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* W・ライヒの理解する処によればフロイト主義はマルクス主義に帰着する唯物論である(W. Reich, Dialektischer Materialismus u. Psychoanalyse【Unter dem Banner des Marxismus[#「Marxismus」は底本では「Maxismus」] ※[#ローマ数字3、1−13−23]. 5】)。
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 フロイト主義はかくて、個人心理学的方法による生物学主義である。それが社会理論――即ち又歴史理論――に於ては観念論的歴史観を産まねばならない理由であった。この世界観を吾々は初め、マルクス主義に対立させて見たが、今や両者の根本的な相違とその優劣とがおのずから明らかとなっただろう(そしてこの両者の社会階級的な役割が、どう振り当てられねばならないかに就いても、もはや説明を必要とはしないだろう)。吾々は少くともフロイト主義を観念論に還元し、そして観念論を一つのイデオロギーとして一般的に批判するならば、それだけでもフロイト主義を形式的に批判するには充分だと考える*。
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* イデオロギーとしての観念論の一般的な批判に就いては第三章を見よ。
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 マルクス主義はフロイト主義と一つであるか一つでないか。両者が一応全く別のものであることに就いてはもはや何人にも異論はあるまい。それではフロイト主義はマルクス主義を取り入れることが出来るか。フロイト主義は自分の一つの説明対象としてマルクス主義を問題にすることが一応は出来た(コルナイの場合)――尤もそれは当然にも完全に失敗したものであったが。だがフロイト主義はマルクス主義の真理内容を自分の真理内容として取り入れることが出来るか。吾々はそういう試みの行われたかを知らない。逆にマルクス主義はフロイト主義を正当に説明対象とすることが出来るか。マルクス主義が統一的世界観である以上、勿論夫は出来ねばならない。W・ユリネッツの労作がその適例である*。それではマルクス主義はフロイト主義の真理内容を自分の真理内容として取り入れることが出来るか。夫を全く[#「全く」に傍点]不可能と考えたのはユリネッツの今の論文であり、之に反対してそのまま[#「そのまま」に傍点]――無論適当な解釈の下に――夫を取り入れることが出来ると主張するのはライヒである**。そして最後にザピールはライヒに対する批評に於て、フロイト主義は決してそのままマルクス主義の真理内容となることが出来ないことを明らかにした***。
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* W. Jurinetz, Psychoanalyse und Marxismus (Unter dem Banner des Marxismus[#「Marxismus」は底本では「Maxismus」] ※[#ローマ数字1、1−13−21]. 1.)
** W. Reich 前掲論文。彼によればフロイト主義は意識(精神)の唯物弁証法的構造を明らかにするものだと云う。だが唯物弁証法の諸公式[#「諸公式」に傍点]に部分的に当て篏まるということは、まだ少しも夫がマルクス主義的であることにはならない。夫はなおその全体の性格に於て反マルクス主義的であるかも知れないから。
***[#「***」は底本では「*」] I. Sapir 前掲論文。
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 だが凡そ批評の第一の真剣な目的は、批判される対象が自分の主張と一致するか否かを示すことではなくて、此の対象を如何に――積極的にか消極的にか――自分の側の発展展開に利用し得るかに横たわる。マルクス主義はフロイト主義をも亦、そういう目的意識の下に、批評対象として取り上げなければならない。問題は、フロイト主義がマルクス主義に何を寄与出来るかである。例えば、フロイト主義精神分析が社会(乃至イデオロギー)理論に、如何になり得ない[#「なり得ない」に傍点]かが問題ではなくて、もし多少とも――部分的にしろ――フロイト主義に真理があるならば、どういう条件の下にそれを社会理論になし得るかが問題なのである。そうして初めてフロイト主義をマルクス主義に取り入れる[#「取り入れる」に傍点]という言葉も、又取り入れないという言葉も、意味が生きて来るのである。――で、フロイト主義精神分析の方法であった個人心理学的方法は、どうすれば社会理論の方法に結び付くことが出来るか。ザピールはそこで両者の間に、社会心[#「社会心」に傍点](Sozialpsyche)の研究が※[#「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2−13−28]入されるべきだと考える。フロイト主義の批評は今や、マルクス主義に、社会心理学的[#「社会心理学的」に傍点]研究を必要な問題として課すものだということになる*(勿論この際、フロイト主義自身が社会心理学――それが結局何でなければならないかは後にして――まで行き着くことが出来ないということは、少しも邪魔にはならない。却ってそうであればこそ、夫が問題として提出されるのである)。そして之は取りも直さず、吾々がこの章で中心にしている当の問題に外ならない。
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* 「階級社会に於ては、社会心理学的研究が、根本に於て、階級心(Klassenpsyche)の探究として把握されねばならない。」(I. Sapir 前掲論文)。
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[#3字下げ]三[#「三」は小見出し]

 吾々はブルジョア社会学――乃至心理学――で云う所謂「社会心理学」の問題へ移る。
 ブルジョア科学に於ては、社会[#「社会」に傍点]に就いては社会学[#「社会学」に傍点]があり、意識[#「意識」に傍点]に就いては心理学[#「心理学」に傍点]が存在する。ブルジョア的世界観に於ける社会――ブルジョア社会――の概念と意識――個人的意識――の概念とは、吾々が最初に見た通り、容易に無条件に接合し得なかったにも拘らず、社会自身と意識自身とは云うまでもなく初めから密接に連関している。だから、ブルジョア科学に於ても、恰も、社会と意識とのこの連関を問題とする処の一つの科学が必要とならざるを得ない。それが社会心理学[#「社会心理学」に傍点]なのである。だからわが社会心理学は、云わば社会学と心理学との中間領域か交渉地帯かに位置するわけである。それ故夫は時には結局一つの社会学であり*、又時には言葉通り一つの心理学であり**、又時には社会学としての心理学とならねばならない***。
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* この代表的なものは例えば、E. A. Ross の “Social Psychology”[#「“Social Psychology”」は横組み] であろう。
** [#横組み]McDougall “An Introduction to Social Psychology”[#横組み終わり] は結局、社会的本能[#「本能」に傍点]に研究を集中している。
*** 「集団心理学は全然社会学に外ならない」(E. Durkheim, Sociologie et Philosophie, p. 47)。
[#ここで字下げ終わり]
 社会心理学の研究はそれ故、意識[#「意識」に傍点]の分析から出発するか、又は社会[#「社会」に傍点]の分析から出発するかのどれかである。処が多くの社会心理学はその名前が示す通り意識の分析から出発する一つの心理学だとし
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