黷ネい、A・アードラーやC・ユングの分析も存在する)。フロイト主義はリビドー理論による特殊な精神分析に基くということが出来る。フロイトの精神分析は云うまでもなく精神(Psyche)――広い意味に於ける意識[#「広い意味に於ける意識」に傍点]――の分析である。精神は、意識の表面に現われた処の、自覚されたる又は直接に観察される意識現象、だけに尽きるものではなくて、通常の条件では意識の表面に現われることの出来ない深み[#「深み」に傍点]に動いている。精神の本質は健康状態に於てよりも寧ろ不健康状態に於て、その構造を示すことが出来る。精神病学は云わば精神自身が自ら行なうところの最も信頼すべき実験に外ならない、とそういうP・ジャネ等の見透しに従ってフロイトは、先ず意識[#「意識」に傍点]と無意識[#「無意識」に傍点]との区別に注意する。従来精神に於ける無意識の役割は割合注目されることが少なかったが、フロイトは之を特殊な仕方によって限定した。まず第一にそれは普通無意識と呼ばれているような、単に意識されていないという状態を指すのではない。今意識されていないものもやがて、又は意識を強めることによって、意識されたものとなることが出来るだろう。そういう意識されてはいないが意識され得るような無意識[#「無意識」に傍点]は、彼に従えば真の無意識ではなくて単に「前意識」に過ぎない。真の無意識はこれとは異って、通常の条件の下では如何にしてもその内容が意識され得ない[#「され得ない」に傍点]ものを指す。意識の底の深みには、この無意識が横たわる。――だがなぜ無意識は意識内容となることが出来ないのか。それは前意識に於て働いている一定の検閲制度[#「検閲制度」に傍点]がそれを禁止するからなのである。
検閲とは精神に対して外界から採用された禁止と命令に外ならない。即ち、意識といい無意識といい、一見全く個人心理にぞくするものには違いないが、両者の区別を与えるものとして、個人心理以外の世界がそこで役割を果している。人々は自分では意識することなしに、社会[#「社会」に傍点]条件――遺伝・習俗・道徳・法律其他――によって抑圧されたものを、意識から遠ざけ、社会によって強制されたものだけを意識の上に齎らす。云い直せば、意識とは社会によって解放され又は強要された限りの無意識である。だから、意識はその意味に於て社会[#「社会」に傍点]と等価物であり、之に反して無意識[#「無意識」に傍点]の――少くとも抑圧されたる――一部分は非社会性[#「非社会性」に傍点]を有っている、と云っていい。
無意識に関してフロイトはエス[#「エス」に傍点]と自我とを区別する。前者は人間の精神の内にある非人格的な・生物学的な・深みを云い表わし、後者はこのエスの表面にあって、外界からの刺戟に対する抵抗壁の役割を有つ。エスは無意識であってその一部分がかの抑圧された無意識であり、自我はかかるエスの他の一部分を占めていてその限り無意識にぞくする。自我は併し、それだけではなく同時に前意識をも亦包括している。無意識的なものが意識的になることを抑圧するものは、とりも直さずこの自我なのであった。――抑圧の動力は、だから、自我に、個人に、存する。処がなぜ個人の自我は自分の精神にかかる抑圧を加えねばならなかったか。夫は他でもない、個人が単なる個人でなくて社会的[#「社会的」に傍点]存在でなければならぬからなのである。抑圧は個人の社会的存在の関数である。社会的存在とは併し、観念的なものとしては、社会秩序から来る命令・禁止の他ではない。で自我は、このような命令・禁止を自分の規範とせねばならない負担を有っている。この場合の理想的自我はフロイトによれば自我理想[#「自我理想」に傍点]・超我[#「超我」に傍点]と名づけられる。超我の大部分も亦無意識にぞくする。――かくてエス・自我・超我の区別も亦、社会的なものの干与によって初めて与えられることを、今注意しておかねばならぬ。
意識・無意識の構造を有つ個人の精神は併し、衝動[#「衝動」に傍点]をその実質としている。衝動は欲望を充たすことによって快を得る。精神は快を追い不快を避ける本質を有つ、欲望の実現[#「実現」に傍点]が精神の根本傾向なのである(快感の原理[#「快感の原理」に傍点])。処が、この欲望は事実上必ずしも実現され得るとは限らない、否多くの欲望は抑圧され、多くの欲望の満足は延期されるのが事実の常である。それが是非とも実現され得るためには、これ等の欲望の直接な満足の代りに、その代用物の満足が求められることになる(実現の原理[#「実現の原理」に傍点])。――処でこのようにして、衝動乃至衝動の遂行を抑圧するものは他でもない社会の強制力であった。社会は自我を通じて、衝動を抑圧しそしてその抑圧された衝動が意識されることを禁止するのである(多くの精神症はここに原因しここからその症状を規定されて来る、精神分析術とは抑圧された衝動を患者に意識せしめることによって之を治療する技術である)。
フロイトの精神分析の最も著しい特色は併しながら、この衝動を特有なリビドー[#「リビドー」に傍点]と考えるに存する。リビドーとは愛の衝動であり、又自己保存(栄養摂取)の衝動と結び付ければ、自愛の衝動である。之こそ生[#「生」に傍点]の衝動なのである(フロイトは後に之を死[#「死」に傍点]の衝動に対立せしめた)。一切の精神の運動はこのリビドーを原動力として発動[#「発動」に傍点]する。精神の根柢は生物学的生命[#「生物学的生命」に傍点](〔Vitalita:t〕)にある。意識とはかかる精神のリビドー的実質が、社会的強制によって強制され変容されたものに他ならない。精神に対するこの社会的強制の云わば余波が、一方に於ては多くの精神症の症状となり、他方に於てはそれが昇華[#「昇華」に傍点]して文化形態[#「文化形態」に傍点]となる、と考えられるのである。――それであるから、文化形態――イデオロギー――は、或る意味に於て社会的強制の所産であるが、従ってフロイトによれば、夫は又精神症の対応物に外ならないものなのである。かくて、フロイト主義によれば、イデオロギーは専ら精神病理学的[#「精神病理学的」に傍点]に分析されねばならぬものとなる。
フロイト主義に於ける社会人の心理乃至イデオロギーの有つ関係は略々こうである。A・コルナイは仮にこのような見地に立って記憶すべき研究を与えた*。彼――必ずしもフロイト主義者ではなく後にはその反対者にさえなったが――によれば、フロイト主義精神分析は、個人[#「個人」に傍点]から出発する、それは個人からの類推[#「類推」に傍点]として社会を理解する仕方である。個人に於ける夢[#「夢」に傍点]は社会に於ける神話[#「神話」に傍点]に、個人に於ける神経症[#「神経症」に傍点]は社会に於ける宗教[#「宗教」に傍点]に、又個人に於ける妄想狂[#「妄想狂」に傍点]は、社会に於ける哲学体系[#「哲学体系」に傍点]に、対応せしめられる。無政府主義と共産主義との関係は、早発性痴呆症と妄想狂との関係として理解される。そしてかかる精神症的特徴は無論かのリビドー――エロス――から説明されねばならない。フロイトの最も有名な一つの説明原理に従えば、原始的な骨肉相姦の欲望である息子が母に対する性的衝動は、家長である父の権威ある欲望によって長く抑圧されて来た、この抑圧は人類の歴史を経るに従って一つの錯綜――オイディプス錯綜――を産んだというのである(デュルケム等によって明らかにされたトーテムも亦フロイト主義によれば、オイディプス錯綜に於て殺されてあるべき父を意味するものだと説明される)。でコルナイに従えば、例えばプロレタリア・イデオロギーもこのようなオイディプス錯綜に基づく。プロレタリアは土地から引き離されているために土地に還ることを欲求している――土地錯綜。そして土地は大地たる母(Mutter−Erde)、オイディプスの母、の象徴に他ならない、というのである。コルナイのフロイト主義的イデオロギー論によれば、一切の歴史的現象は誠に珍奇な説明を見出す。フランス革命は市民たるインテリゲンチャが大地たる母へ還ろうとする運動であり、それであればこそ農民が中心とならねばならなかった。農民は無論母との姦淫を欲していたわけである。マルクス主義はブルジョアによって搾取されそうに思う被害妄想であり、プロレタリアによる人類の救済は一つの宗教妄想に他ならない。弁証法と雖も妄想狂の所産であることを免れない。万国のプロレタリアの結束は、オイディプス錯綜から来る男同志のエロティシズムだと宣告される。――云うまでもなくこの種のものは、フロイト主義的イデオロギー論乃至フロイト主義的社会理論のカリカチュアであろう。そして之は必ずしもフロイト自身の責任ではないかも知れない。だが吾々は、このカリカチュアの本質を明らかにしなければならない。なぜならそれはやがてフロイト主義的理論自身の本質でもあるだろうから。
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* A. Kolnai, Psychoanalyse und Soziologie (英訳 Eden and Pedar).
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フロイト主義精神分析は無論、個人精神[#「個人精神」に傍点]の、広義に於ける個人意識[#「個人意識」に傍点]の、分析である。なる程その際、個人は単なる個人と考えられずに、正に社会に於ける・社会的・個人と考えられている。それであればこそ、検閲や抑圧・錯綜や昇華の概念も成り立つことが出来た。だが、この個人の有つ意識は、吾々の言葉に従うならば、あくまで個人的意識[#「個人的意識」に傍点]であってそれ以外の意識の概念ではない。というのは、意識――それは個人が所有するのであるが個人によって所有されるという点にその性格があるとは限らない――の概念は、専らそれが個人の所有であるという限りの意味に於てのみ、把握されているのである。この意識は如何に社会によって制約されると考えられていても、制約される意識自身が初めから個人的意識[#「個人的意識」に傍点]の概念によって制約されているから、社会的という規定はすでにこの意識に加えられるべく余りに立ち後れがしている。だからこそフロイト主義による個人の意識――精神――に於て、元来その社会的性格は至極表面的・付加的であらざるを得ない。――フロイト主義精神分析は、個人心理学的方法[#「個人心理学的方法」に傍点]を以てその方法とする*。これが今のカリカチュアの本質なのである。
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* 吾々はこの点及び他の点に就いて、I. Sapir がフロイト主義に加えた批評に同意出来る(I. Sapir, Freudismus, Soziologie, Psychologie. Unter dem Banner des Marxismus, ※[#ローマ数字3、1−13−23], S. 937 f. ※[#ローマ数字4、1−13−24], S. 123 f)。
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個人心理学的方法に従うフロイト主義は、即ち個人的意識[#「個人的意識」に傍点]の概念から出発して分析を進めるフロイト主義は、何かの意味に於て超個人的[#「超個人的」に傍点]な意識(尤も哲学者の云うかの純粋意識や先験的意識のことではない)、又は社会心理学的[#「社会心理学的」に傍点]な意識(この概念に就いては後に見よう)にぞくする処の、かの社会人の心理[#「社会人の心理」に傍点]やイデオロギー[#「イデオロギー」に傍点]を、正当な視角から問題として取り上げることが出来ないように初めから出来ている。そこでは、社会人の心理乃至イデオロギーが、之とは全く質を異にしている個人的意識の直接な拡大か又は遠隔作用[#「遠隔作用」に傍点]として、個人的意識の類推物又は対応物として取り扱われる外にどうしても方法が見当らないのは尤もであ
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