にこそ横たわる。自我の概念の起源は遠くルネサンスにまで辿ることが出来るが、ルネサンスに於けるヒューマニズムと呼ばれるものは、実は、人間性[#「人間性」に傍点]の発見だったのではなくて、個人[#「個人」に傍点]が中世的ギルドから解放されることを意味したのでなければならない。人間性とはかかる個人が発見された新鮮[#「新鮮」に傍点]さを云い表わすものに外ならない。ここでは人間は個性[#「個性」に傍点]あるものとして自覚される、工人は自由[#「自由」に傍点]な芸術家――之こそ個性の主人である――にまで向上したのである。意識は自我として、個人として、個性として、又自由として、自覚される。意識は要するに自己意識[#「自己意識」に傍点](自覚[#「自覚」に傍点])として登場した。之がやがて哲学的反省にまで齎らされると、ホッブズのアブソリュティズム(之は彼が個人の自由[#「個人の自由」に傍点]を余りに強く意識しすぎたことの結果であるとも云えよう)となり、デカルトの「コギト」・ライプニツの「モナド」・カントの「無上命令」等々となる。恐らくフィヒテの自己意識である「純粋自我」は、このような意識の概念の最も代表的なものであったと考えられる。個性的自由の有つ自己(自我個人的)意識――自覚――こそが、今日の意識概念の代表的なものである。意識とは今日、個人的意識[#「個人的意識」に傍点]を意味することが普通となっている、とそう一応云っておいて好い。
処で恰も、この個人的意識[#「個人的意識」に傍点]が、かのブルジョア社会[#「ブルジョア社会」に傍点]に於て、特有に重大な役割を有っていることを注意すべきである。と云うのは、個人的意識の――個人の[#「個人の」に傍点]――自由はブルジョア社会にとっての、時には幸福な又同様に時には不幸な根本原理[#「原理」に傍点]として、意識されるからである。個人の利益は、時には見えざる手によって国家(common−wealth)――ブルジョア的共有財としての社会――の利益にまで導かれると考えられ、又時には之に反して、恐慌その他の形を取って社会に重大な不利益を齎すものと考えられる。ブルジョア社会は個人の自由を、個人的意識の自由を、要するに意識を、その原理として意識する。だからブルジョア的生活意識乃至世界観からすれば、それが社会とは個人――それが意識の所有者だと考えられる――という原理を法とする割り切れない剰余に過ぎなくなる。だからブルジョア的社会科学にとっては、社会は、個人というアトムの連合としてか、又はそうでなければ個人というアトムの連合からは理解出来ない個人外のもの――例えば強制を与える総体――としてか、理解される外はない。何れにしても、ブルジョア社会科学にとっては、社会とは個人を法とした場合の消極的[#「消極的」に傍点]な形式的[#「形式的」に傍点]な剰余となる(広い意味に於ける形式社会学は茲から発生するのである)。ブルジョア的世界観にとっては、このようなものが社会と意識――個人――との関係なのである。――だが、取りも直さず之は外でもない、ブルジョア[#「ブルジョア」に傍点]社会の概念と個人的[#「個人的」に傍点]意識の概念とによる社会と意識との関係に過ぎないのであった。
社会を、意識すると否とに拘らず、ブルジョア[#「ブルジョア」に傍点]社会の概念を標準として理解し、同時に之に平行して、意識を、故意であると否とに拘らず、個人的[#「個人的」に傍点]意識の概念によって理解すると、社会は個人(意識)の消極的な形式的な剰余としてしか現われることが出来なかったのだから、社会と意識(個人)との関係は、実質的には[#「実質的には」に傍点]解決し得ない問題としてしか現われて来ない。今日のブルジョア社会に於て支配的である――その意味で代表的である――社会の概念と意識の概念とによっては、だから社会と意識との関係の問題は、恐らく正当に云えば、問題にさえなれない筈なのである。
この問題はだから次のような条件の下でしか解決出来ない、即ち、一方に於て、社会[#「社会」に傍点]が個人からの消極的形式的剰余であることをやめて、何かそれ自身の積極的な内容を得ることによって初めて、必然的に個人[#「必然的に個人」に傍点]まで媒介されるようになり、又同時に他方に於て、意識[#「意識」に傍点]が個人の固い殻の内に閉じ籠ることをやめて、何かの形で社会[#「社会」に傍点]にまで連絡されるようになる、そういう条件の下で初めて、之は解き得る問題となることが出来る。社会の観念はもはやブルジョア社会の概念の水準に止まってはならず、意識の概念はもはや個人的意識の概念の範囲に止まってはならない。否、もはやそうあることが出来ないということが、社会の概念自身と、意識の概念自身とが担っている、今日の吾々の社会の必然的[#「必然的」に傍点]な歴史上[#「歴史上」に傍点]の負担なのである。
ブルジョア社会の概念を社会そのものにまで一般化し永久化そうとする処の、ブルジョア的社会概念を、分析解体することによって、その反対物にまで導いたものは、マルクス主義の理論である。之によってブルジョア社会は、その内部的矛盾のために必然的に形態転換しなければならない処の、成長し且つ老いて行く一の生命過程として、特色づけられる。社会のこの過程の転換する諸要素間の差異関係であってこそ初めて、諸個人の意識内容の諸要素間のそれぞれの差異関係に、実質的に[#「実質的に」に傍点]結び付けられることが出来るのである。マルクス主義的社会概念――そしてこれは取りも直さずブルジョア社会を変革するプロレタリアのもつ社会概念であるが――であって初めて、社会は自分と意識(個人)との実質的な関係を見出すことが出来る。そうでなければ、高々、要するに社会は全体で個人(意識)は部分であるとか云うことが出来るに過ぎず、両者の関係は結局、全体と部分とかいうような空虚な隙だらけの容器に盛られて了う外はない。
だが此の際、意識(個人)の概念も亦、マルクス主義によって、従来のものから根本的に変革されなければならない。従来の個人的意識[#「個人的意識」に傍点]はもはや此の際、そのままでは意識概念として役立たないことが見出される。意識は個人が持つことに疑いはないとしても、その個人が吾々によれば、もはや個人としての個人ではなくして、社会人としての個人でなければならない。そうすれば個人の意識も亦、もはや個人的意識としての個人意識ではなくて、何か社会的意識[#「社会的意識」に傍点]としての個人意識でなければならなくなる。そればかりではない、個人を主体とする代りに、却って個人を超越した何かの社会形態――階級とか身分とかその他の集団とか――を主体とするような意識も、そこでは考えられることが出来、或は考えられねばならなくなるかも知れない。意識は個人という鎖から切り離され、個人的意識[#「個人的意識」に傍点]の概念から離脱しなければならない。意識は、たとい夫が個人の意識[#「個人の意識」に傍点]であろうとも、個人的意識[#「個人的意識」に傍点]の概念によって把握されてはならない。意識は何かの意味で社会的意識[#「社会的意識」に傍点]――尤も之は社会に就ての意識や社会が持つ意識とは限らない――でなくてはならない。吾々の社会概念による社会[#「社会」に傍点]が、実質的に結び付くことの出来る処の意識[#「意識」に傍点]は、何かこのようなものとして理解されねばならないのである(第一章参照)。
さて、マルクス主義乃至唯物史観による、社会と意識との関係は、既にプレハーノフによって一応定式化せられた。社会構造に於ける基底から上層建築[#「上層建築」に傍点]への展開は、彼に従えば、
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一、生産力の状態、
二、この状態に制約された経済関係[#「経済関係」に傍点]、
三、与えられた経済的「地盤」の上に生じる社会的政治的秩序[#「政治的秩序」に傍点]、
四、一部分は直接に経済によって、一部分は経済の上に生じる社会的政治的全秩序によって、規定された、社会人の心理[#「社会人の心理」に傍点]、
五、この心理の諸特徴を反映する処の様々の諸観念形態[#「諸観念形態」に傍点](イデオロギー)、
[#ここで字下げ終わり]
の順序に従って行なわれるというのである*。併し今注意しなければならないのは、第一に、ここで観念の形態=イデオロギーと呼ばれるものは、云わば客観的に見出される文化現象を意味するのであって、必ずしも意識の一定形態――意識形態――を意味してはいない・ということである。意識形態という意味でのイデオロギーは彼によれば寧ろ、今社会人の心理[#「社会人の心理」に傍点]と名づけられたものに相当する。事実彼は、同一の意識形態[#「意識形態」に傍点]も、文化領域の異るに従って様々の観念形態を取らねばならぬということに就いて、力を極めて説いている。では第二に、この社会人の心理とは一体どういうものであるか。それは社会人の心理であるのだから、単純に個人心理――個人の意識――でないことは明らかであるが、では個人心理と夫とはどう関係するのであるか。このイデオロギーは社会心理[#「社会心理」に傍点]とでも云うべきものであるのか。そうすれば社会心理とは何であるか。プレハーノフはこの点に就いて、余り問題を見出してはいないように見える。彼にとっては、恰も先に吾々が試みようとした意識概念の変革は、全く無視されて了っているか、そうでなければ何時の間にか解決済みになっているように見える。
[#ここから2字下げ、折り返して3字下げ]
* G. Plechanow, Die Grundprobleme des Marxismus[#「Marxismus」は底本では「Maxismus」], S. 31 (Marxistische Bibliothek).
[#ここで字下げ終わり]
社会人の心理[#「社会人の心理」に傍点]乃至イデオロギー[#「イデオロギー」に傍点](意識形態としての)概念は単にプレハーノフに限らず多くのマルクス主義者によっても、まだ充分に展開されていないようである。社会と意識との実質的な関係の問題を本当に説くことが出来ないと併し、歴史社会的存在の下層建築と上層建築との弁証法的関係を、この点に就いて、唯物史観によって充分に具体化すことが出来ない。
[#3字下げ]二[#「二」は小見出し]
元来、社会人の心理――それが結局何でなければならぬかは後にして――乃至文化形象を、単に記述するに止まらず、分析し説明する為めに統一的な方法を提供したものこそは、云うまでもなくマルクス主義であった。マルクス主義は一面に於て、文化形象を説明する組織的な方法である。処で現在、このような説明原理に多少とも比較出来るものは、恐らくまず第一にフロイト主義[#「フロイト主義」に傍点]でなければならないだろう。実際マルクス主義とフロイト主義との間には仮にその比較が不倫であるにしても、多くの類似点を指摘することが出来る。フロイト主義は一方に於て精神病理学の臨床的技術であると共に、それと平行して又一つの世界観をなしている。夫は丁度マルクス主義が社会革命の実践的方法であると共に、一つの普遍的な世界観である、という事情と似ていなくはない。併し、こと世界観に関するならば――そしてこれが世界観であればこそ初めて文化説明の原理ともなれるのだが――二つのものが同じく世界観であるという点で類似している、と云って済ますことは出来ない筈である。二つの世界観の異同・優劣が直様問題とならざるを得ない。今日、マルクス主義とフロイト主義との関係が(主としてマルクス主義者の側から)、相当真剣な問題として取り上げられるのは尤もである。
フロイト主義を二つの層に分解することが出来る。第一は精神分析[#「精神分析」に傍点]、第二はリビドー理論[#「リビドー理論」に傍点](精神分析はフロイト主義に限ら
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