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処がこの形而上学的[#「形而上学的」に傍点]とも見えるものは、マンハイムによれば、とりも直さず社会学的[#「社会学的」に傍点]なものに外ならないのである。イデオロギーの是非を判定し得るものは、もはやイデオロギー[#「イデオロギー」に傍点]的な物の見方ではなくして、正に社会学的[#「社会学的」に傍点]な物の見方でなければならない。蓋しイデオロギー的とは観念をそれの立場の内部から見ることであり、之に反して社会学的とは之をその立場の外から――公平に――眺めることを意味する。イデオロギー論は何等かのイデオロギーに立っては公平であることが出来ない、イデオロギーの性格を振り落した社会学によって、初めてイデオロギー論は科学的[#「科学的」に傍点]となることが出来る*。マルクス主義的イデオロギーに立つマルクス的イデオロギー論は、無論社会学的イデオロギー論によってその是非を判定して貰わなければならない。マンハイムはそう断定する。
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* 〔K. Mannheim, Ideologische und Soziologische Interpretation d. geistigen Gebilde (Jahrbuch fu:r Soziologie, Bd. ※[#ローマ数字2、1−13−22])〕 ――人々によれば社会学が発達しないのは、その方法がイデオロギー的であってまだ社会学的でないからだそうである。例えば 〔H. Ehrenberg (Ideologische und soziologische Methode. Archiv fu:r systematische Philosophie und Soziologie, Bd. 30, 1927)〕。
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マンハイムのイデオロギー論がマルクス主義的な夫と如何に根本的に相反するかを知るには、もはや之で充分だろう。吾々はこのようなイデオロギー論がどのような諸点に於て、欠陥を有っているかを、一々指摘出来る。今はただ一つの点に止めておこう。
非イデオロギー的な・社会学的な見方、マンハイムの認識社会学・イデオロギー論のこの方法は、不幸にしてマンハイムの欲する処とは無関係に、矢張り一つのイデオロギーに基くと云わざるを得ない。なぜならそれはインテリゲンチャのイデオロギーではなかったか。インテリゲンチャこそは非イデオロギー的――超階級的――であると云うであろうか。併し彼はそう宣言することによって、単にブルジョアジーのイデオロギーに一致するまでのことである。――問題はかのわが国でも暫く前から有名になったインテリゲンチャ論に帰着して行くようである。
階級は階級対立の観念的な否定[#「観念的な否定」に傍点]によっては止揚されない、それと全く同じに、イデオロギーはイデオロギー対立の社会学的な媒介[#「社会学的な媒介」に傍点]によっては止揚されない。イデオロギー一般を止揚し得るものは、或る一定のイデオロギーのみである、否そのような一つのイデオロギーを産む実践的な地盤だけである*。
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* A. Fogarasi も亦吾々と殆んど同じ仕方によってマンハイムの Ideologie und Utopie を批判した(Unter[#「Unter」は底本では「Uuter」] dem Banner des Marxismus, 1930. 3)。――なお K. A. Wittfogel, Wissen und Gesellschaft (Unter dem Banner des Marxismus, 1931. 1) を見よ。
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マンハイムのイデオロギー論は、歴史的原理[#「歴史的原理」に傍点]としての階級を除外することによって、イデオロギーの真偽を判定する論理的[#「論理的」に傍点]な原理を放擲する。――茲でも亦、歴史[#「歴史」に傍点]の否定は論理[#「論理」に傍点]の問題を無視せしめる結果を伴っている、それを人々は重ねて思い起こさねばならぬ。
吾々は最後に云うことが出来る。知識社会学が、論理[#「論理」に傍点]の問題を実質的に――真偽価値対立[#「真偽価値対立」に傍点]の問題として――提出し得るためには、それは知識のイデオロギー論の形にまで行かねばならなかった。併しこのイデオロギー論がこの理論の問題を解き[#「解き」に傍点]得るためには、それ自身がイデオロギー的性格を持ってかからねばならぬ。それは階級性を有たねばならず、又持つことを自覚しなければならない。そしてこの段階は歴史的原理[#「歴史的原理」に傍点]の承認の程度に相応するのである。だから、知識社会学であり得るためには、それは所謂[#「所謂」に傍点]社会学であることを止めることこそ必要だろう。そうしなければ知識を社会的[#「社会的」に傍点]に――歴史的[#「歴史的」に傍点]に――取り扱うことは出来なくなる。之は詭弁ではない。も一遍云っておこう。知識の社会学はもはや単に一種の社会学として止まることは出来ない。この社会学は単に社会的存在という一部分的の科学には止まり得ない。知識社会学――イデオロギー論――は論理[#「論理」に傍点]の問題を、社会的[#「社会的」に傍点](歴史的[#「歴史的」に傍点])等価物[#「等価物」に傍点]として明白に且つ有効に、解き得なければならないのである*。
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* 「与えられた文学現象の社会的等価を発見することに努力しつつ、若しも、問題がこの等価物の発見にのみ制限され得ないということ、社会学は美学の前に扉を閉すことではなくて、反対にその前に夫を開け放つことであるということを理解しないならば、文芸批評はそれ自身の本性を裏切るものである。自らに忠実な唯物論的批評の第二段の行動は――それが批評家・観念論者の所に於てそうであった如く――、審査しつつある作品の美学的価値の評価でなければならない」(プレハーノフ『二十年間』第三版序文――蔵原惟人訳)。――「芸術社会学」の問題が何にならなければならないかが茲に明らかである。今は「美学」の代わりに「論理学」を、「美学的価値」の代わりに「論理的価値」を置き換えれば好い。
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さてあるべき知識社会学・イデオロギー論は、ただマルクス主義の内に於てのみ、発見され展開される必然性と可能性とがある。マルクス主義的なこの課題は恐らく「芸術社会学」などにも増して、より根本的な重大さを持つだろう。実際それは、殆んど凡ゆるマルクス主義的理論の隅々にまで織り込まれていると云っても好い。併しそれにも拘らず、それはまだ知識社会学自体としては、必ずしも目立たしい程充分に展開されてはいないように見える。だが、問題は、それであればこそ愈々益々重大である*。
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* 之に関係を持つ著述として、吾々はさし当り、〔K. A. Wittfogel, Die Wissenschaft der bu:rgerlichen Gesellschaft〕 とか E. Untermann, Science and Revolution とか A. Bogdanow, Die Entwicklungsformen der Gesellschaft und die Wissenschaft とかを挙げることが出来る。
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[#改段]
[#1字下げ]第六章 社会心理学の批判[#「第六章 社会心理学の批判」は中見出し]
[#3字下げ]一[#「一」は小見出し]
イデオロギーは文化であると共に又心理[#「心理」に傍点]でもあった。而もそれは社会心理[#「社会心理」に傍点]と名づけられても好いものであるように見える。恰も「社会心理学」はそうしたものを取り扱おうとする。そこで社会心理学とイデオロギー論との関係を検べて見ることが必要となるのである。――今や問題は社会[#「社会」に傍点]と意識[#「意識」に傍点]との、吾々が最初に触れたかの関係の内に横たわる。
社会という言葉も意識という言葉も、人々が日常之を使い慣らしているだけに、それだけ却って殆んど無限に異ったニュアンスを有った概念を云い表わす。例えば社会学者や民主主義者、又資本家や当局、が大体同じ「社会」概念を持っているとしても、それは社会科学者のもつ社会の概念とは根本的に異った点を含んでいる。心理学者や哲学者が「意識」という言葉で理解するものは、一般世人や労働運動者の理解している「意識」ではない。専門的な術語としてさえ、この言葉は決して判明なものではない。――だがこのようなニュアンスが吾々の前に無秩序に並存してあると考えてはならない。実を云えば、夫々の概念が歴史的発展の過程を経ることによって、今日にまで止揚されて来たモメントが、今日の様々なニュアンスとなって現われて来ているのである。そこで、社会と意識という二つの概念が、どういう歴史上の負担を有って今日吾々に現われているかを見よう――第一章参照。
人間の社会は有史以前からあっただろうし、又は人間がまだ動物的な諸条件を脱しない時にすらあったと想像して好い。元来動物それ自身が或る意味では社会的であるかも知れない(エスピナの 〔Les Socie'te's Animales〕 によってのように)。併し社会という概念[#「概念」に傍点]が、他の概念から特に区別されて、自覚[#「自覚」に傍点]にまで齎されたのは、可なり新しいことと考えられる。ギリシアの都市国家やローマ帝国はまだ自分に対する恰好な対立物を有たなかったが――、カエサルの国家の対立物はイエスの神の国[#「神の国」に傍点]にまで昇華して了った――、すでに中世末期のイタリヤ都市国家になれば、それは地上の神の国としての法王権に、意識的に対立しなければならなかった(ギベリニ党員ダンテの時代)。そしてやがて之等及びその他の新興封建諸国――諸王国[#「諸王国」に傍点]――は、最後に、それ自身の内からその対立物として、ブルジョア社会[#「ブルジョア社会」に傍点]を生み出すことによって、王国から資本主義的国家[#「国家」に傍点]にまで変質した(この変質が今日に至って完了したものが現在に於ける帝国主義の形態である)。だから国家から区別された社会[#「社会」に傍点]の概念は、フランス革命を契機として人々の意識に上ったと云わねばならぬ。そして今何より大事なことは、この社会の概念が、国家[#「国家」に傍点]と対立するところの社会一般[#「社会一般」に傍点]の名の下に、実は、ブルジョア社会[#「ブルジョア社会」に傍点]の概念を潜在意識していたということである。この潜在意識を暴露したものがヘーゲルの利益社会(〔bu:rgerliche Gesellschaft〕)の概念であったのである。さてこのブルジョア社会の概念――決してそれは社会一般[#「一般」に傍点]の概念ではない――こそが今日、社会概念一般の標準をなしその代表者[#「代表者」に傍点]となっている。今日、普通行なわれている諸々の社会概念は大抵、ブルジョア社会の外へ出でずにその埒内で理解された処の、即ちブルジョア的に理解された、社会概念なのである。それはブルジョア社会を直ぐ様社会一般にまで永遠化すか、そうでなければ、ブルジョア社会以外の社会をブルジョア社会のモデルに従って把握しようとする。社会一般は今日、多く、ブルジョア社会になぞらえられてのみ考えられる。
意識の方はどうか。意識自身の歴史的発生は今は問題になるまいが、意識の概念の発生は前にも云った通り、アウグスティヌスに置かれている。併しここで意識と考えられるものは神にまでつながる人間の内面性[#「内面性」に傍点]に他ならない。処が今日の諸意識概念の一般的な特色は、この人間の内面性を更に自我[#「自我」に傍点]にまで結び付ける
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