nとしての普遍性を持つことが出来る。人間のこの個人主義的な発展傾向は却って彼を普遍的な人間性[#「普遍的な人間性」に傍点]にまで導くべきである、と考えられる***。であるからイェルザレムによれば、人間の精神の発展は、社会的凝結―個人化―人間性、という三つの段階を踏むことになると云って好いだろう。――処でデュルケム達によっては、このような特定の発展段階[#「特定の発展段階」に傍点]は必ずしも明らかにされていなかった。
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* [#横組み]W. Jerusalem, Die soziologische Bedingtheit des Denkens und der Denkformen, S. 184―7 (in “Versuch zu einer Soziologie des Wissens”).[#横組み終わり]
** [#横組み]Jerusalem, Soziologie des Erkennens (in “Gedanken und Denker”) S. 149.[#横組み終わり]
*** Die soziologische Bedingtheit......, S. 189.
[#ここで字下げ終わり]
デュルケムに於ては一旦陰影の側に回されていた処の、この発展段階[#「発展段階」に傍点]の思想が、今や多少その形を変えたにしても尚その精神に従って、再びイェルザレムの内に再生しているように見えることを、人々は注意せねばならぬ(それに、コント風の人間性の概念も亦再び其処に姿を現わした)。コント知識社会学の歴史的原理[#「歴史的原理」に傍点]はかくて、少くともその一部分をイェルザレムによって復原されたかのようである。併し復原は啻にこの点だけに止まらない。
コントはみずから 〔voir pour pre'voir〕 をば実証的精神と定義している、彼にあっては真理とは単に見る[#「見る」に傍点]――理論――ためのものではなくて、正に予見[#「予見」に傍点]するためのものであり、そして予見は人間が実践[#「実践」に傍点]するためにこそ必要なのである。真理は実践のための方向線でなければならない。真理のこの実証的概念はそのままイェルザレムに移行するように見える*。真理概念をこのように実証主義的にする時、真理とは主観的相互の普遍的な合致を外にして、なお認識の客観的な規準となることが出来る。真理概念はかくて客観的なもの[#「客観的なもの」に傍点]に関して規定されることが出来る。処がこういう意味での客観的真理は、イェルザレムによれば一つの社会的凝結[#「社会的凝結」に傍点]に外ならない、ここでは知識の個人的要素が全く社会的要素に吸収されて了っているだろう。処でこの社会的凝結から次第に解き放されることによって個人化して行くことこそ、人間の知識の発達だったのだから――前を見よ――、真理のこの客観的な概念はやがてその主観的な概念をも産むようになる。カントの「思惟必然性」などは之に他ならない。併しながらこういう主観的な真理概念の危険は、結局世界の客観的存在の否定を結果する処に横たわる、それは一切のものとの一致を感受しようと欲する審美的[#「審美的」に傍点]・観念的[#「観念的」に傍点]な人格に適わしい真理概念ででもあろう。真理は併しその麗わしさにではなくて「仕事」の内にこそある筈である、真理は行動のための指針である。――真理概念はかくて、知識社会学が説明し得又説明しなければならない問題となって、イェルザレムの前に現われる**。
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* イェルザレムの実証主義的真理概念には、多分の実用主義的・思惟経済主義的・痕跡が潜んでいる。彼の社会学的な見方が生物学的な見方に支配される限り、そうなのである(行動の概念も亦そうである、――後を見よ)。
** Soziologie des Erkennens, S. 150 ff. 参照。
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真理[#「真理」に傍点]の概念を(行動によって)実証主義的に問題とすることは、デュルケム達の知識社会学がイェルザレムの夫に一歩を譲らねばならない点である。何故なら、イェルザレムは茲でカントに代わって、そして又デュルケムに代わって、論理的アプリオリを問題として提出し得たからである*。先にコント知識社会学の歴史的段階[#「歴史的段階」に傍点]の原理を再生したように見えたイェルザレムは、今度は又コントに於ける真理[#「真理」に傍点]―虚偽[#「虚偽」に傍点]の論理[#「論理」に傍点]の問題を、とに角復原したかのように見える。
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* 彼は自分の知識社会学の課題を「人間理性の社会学的批判」と呼んでいる。之は云うまでもなくカントの『純粋理性の批判』に比較するためである。
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デュルケム達によって回避されたコントの歴史的段階[#「歴史的段階」に傍点]の理論と真理概念[#「真理概念」に傍点]の問題とは、イェルザレムの認識社会学に於て、再び受け継がれたかのように見えた。併し断定を急いではならぬ。
コントに於ける人間精神の三つの発展段階は、単に直接に人間一般の精神の夫であるというばかりではなく、同時に夫々が社会的な階級に相応する処のものであった。夫は全く政治的[#「政治的」に傍点]な意味によって規定された三つの段階であった。人間精神の発展が政治的乃至政治学的に把握されていたのであった。処がイェルザレムに於ける人間精神のかの歴史的発展は、云うまでもなく少しも政治学的に規定されてなどはいない、人間が単に社会的な凝結から解き放たれて次第に個人化して行くという関係には、何の政治も在り得ない。そこには全く――政治学から区別された処の――社会学的なものしか存在しない。社会的存在からこのようにして政治学的なるものを引き去って社会学的なものだけ残すということは、形式社会学が物語っていた通り、それだけ歴史的原理[#「歴史的原理」に傍点]を引き去るということを意味する(一般史は政治が中心となって記述されるという事実を注意せよ)。そしてそれは実はそれだけ社会的[#「社会的」に傍点]なもの――社会学[#「学」に傍点]的なものではない――を引き去るということを意味する。このような社会学は、他の点でどのように実践的[#「実践的」に傍点]であるように見えても、全体に於て根本的に非実践的であらざるを得ない筈である。何故なら、政治こそは最も具体的な媒介された実践の形態だろうから。コントの歴史哲学は少くともこの点に於て――彼の政治概念それ自身が非実践的であったことは別として――実践的・政治的であった。イェルザレムは然るにそうではない、彼に於てはコントに於けるだけの歴史的原理が結局何処へか行って了っている。
歴史的原理[#「歴史的原理」に傍点]の喪失・政治的実践の無視は併し、イェルザレムの論理[#「論理」に傍点]=真理の規定を極めて不充分なものとする。真理概念を規定していた一応実践的に見えるかの行動[#「行動」に傍点]なるものは、実は単に全く行動主義的[#「行動主義的」に傍点]な、生物学的・実用主義的な、概念でしかない。真理概念は政治に関係づけられる代りにこの行動に関係づけられる。それ故ここで社会学的な問題となる論理は、単なる真理又は単なる虚偽としてであって、それが社会的に存在することによって或いは真理として自覚される虚偽となったり或いは虚偽として排斥される真理であったりするような、そういう社会現象[#「社会現象」に傍点]としてではない。真理はその限り全く社会的制約から遊離したものとしてしか問題になることが出来ないでいる。之が少くとも知識[#「知識」に傍点]の社会学[#「社会学」に傍点]として名誉に数えられることだろうか。イェルザレムの認識社会学は、[#傍点]真理の実際上の社会的存在[#傍点終わり]を取り扱うことが出来ない。論理の問題は実はであるからここでも亦社会学的に取り扱われ得ない。之が歴史的原理[#「歴史的原理」に傍点]を無視した結果に外ならなかったのである。――茲でも亦、知識社会学にとって、歴史の問題が同時にそれだけ論理の問題であることを、重ねて人々は気付かねばならない。
歴史的原理と論理の問題とを、このように回避することによって、イェルザレムの認識社会学は、イデオロギー論を回避することが出来る。だが彼は何故に歴史的原理と論理の問題とを回避しなければならなかったか。事階級[#「階級」に傍点]に関わるからであった。彼にとっては、階級の代りに、個人[#「個人」に傍点]か又は人間一般[#「人間一般」に傍点](社会[#「社会」に傍点])かしかない。個人主義化[#「個人主義化」に傍点]し、やがてコスモポリタン化[#「コスモポリタン化」に傍点]すということが、人間の精神の発展なのであった。階級の這入る余地はどこに与えられているか。階級的であると同時に超階級的であったコントの知識社会学の矛盾は、このような仕方に於て――階級性を引き去ることによって――誠に能く整理される。イェルザレムの実証主義的知識社会学の承継[#「承継」に傍点]と復原[#「復原」に傍点]との秘密は茲に横たわる。
[#3字下げ]三[#「三」は小見出し]
コントのイデオロギー論は、プロレタリアに名を借りた処の、ブルジョアジーのイデオロギー論であった。それは恰も、フランス革命が無産者農民を動員して行われた有産者的市民の革命に外ならなかったことに対応する。ブルジョアジーの成熟と共に併しながら、プロレタリアの結束が、プロレタリアのブルジョアジーからの凡ゆる方面に於ける独立が、結果する。ブルジョアジーはその時、この次第に革命的となりつつあるプロレタリアに対抗するために、是非ともみずからの曾ての革命的性格を振り落し、或いは民主主義的、或いは絶対主義的・ファシスト的な変質を遂げねばならない。反抗的であったブルジョア的イデオロギー論も、亦イデオロギー論であることを止めて、単なる知識社会学[#「単なる知識社会学」に傍点]としてみずからを性格づけねばならなかった。何となればイデオロギーなる概念は、多少とも政治的・革命的なるものとの縁を絶つことが出来ないからである。所謂――ブルジョア的――知識社会学がイデオロギー論であることを、又は其になることを、欲しないのは誠に賢明であると云わざるを得ない。
知識社会学のこのような変質は、併しながら、であるから、プロレタリア的な知識社会学――イデオロギー論――の発生に、無意識的にか意識的にか、対応する。プロレタリア的知識社会学とは取りも直さずマルクス主義的「イデオロギー論」であった。――実際、イデオロギーと云う言葉を、今云うイデオロギー論という言葉のイデオロギーという意味に、即ち上部構造としての意識形態・乃至観念形態という意味に、初めて用いることの出来たのはマルクスその人であった*。
[#ここから2字下げ、折り返して3字下げ]
* イデオロギーの概念の発生と変化とに就いては森戸辰男氏「マルクス・エンゲルスのイデオロギー観」(『大原社会問題研究所雑誌』第八冊)が好い文献である。なお、G. Salomon, Historischer Materialismus und Ideologienlehre(〔Jahrbuch fu:r Soziologie, Bd. ※[#ローマ数字2、1−13−22], 1926〕)を参照せよ。
[#ここで字下げ終わり]
マルクス主義的社会科学が一般に所謂社会学[#「社会学」に傍点]を圧倒し牽制するように、マルクス主義的イデオロギー論――尤も正当なイデオロギー論はマルクス主義的のものでしかなかったのであるが――は所謂知識社会学[#「知識社会学」に傍点]を圧倒し牽制する。そこで知識社会学は之に反作用することによって、みずからイデオロギー論を名乗り、イデオロギー論を作らねばならなくなる。そ
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