ヨの」に傍点]、知識の[#傍点]特定の理想状態へ向っての[#傍点終わり]、発展形態を云い表わすためのものである。恐らく知識が歴史的に(原始状態から文化状態へ)推移・展開発展するということを認めない人はいないだろう、併し知識がそのように単に[#「単に」に傍点]発展すると考えることと、知識がその上で更に特定の[#「特定の」に傍点]理想状態に向って発展・進歩しつつあると考えることとは同じではない。そしてただ特定の理想状態に向っての発展を云い表わすためにのみ、あのような段階説[#「段階説」に傍点]が必要なのである。であるから今、単なる[#「単なる」に傍点]発展説と段階的[#「段階的」に傍点]発展説とは、歴史的原理の承認の度合に於て、重大な区別を与えられねばならない。処でコントは特にその内の一方なのであった、彼は段階説を採ることによって初めて、夫々の段階を一つの政治的な社会層――階級――に対応させることも出来たのである。夫々の発展段階に在る思想は夫々一定の政治的性格――この特有な歴史的原理――を与えられる。知識の歴史の所謂三段階説は実は一種のイデオロギー論なのであった*。
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* 知識はコントに於ては歴史的存在の代表者である。それ故知識の歴史的三段階は直ちに歴史的存在全体の夫である。この観念主義的なる歴史観が、哲学――思想・観念――を歴史の政治的変革の原理と考えるのは当然である――前を見よ(この哲人政治的思想がやがて人道教の提唱となったということに何の不思議もない)。従って彼のイデオロギー論は決して歴史哲学(社会学)の一部分[#「一部分」に傍点]であるのではなく、正にそれの基礎をなす処のものでなければならない。彼の知識社会学は[#傍点]このような種類の一種の[#傍点終わり]イデオロギー論であった。
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 コントの知識社会学に於ける歴史的原理の二つの契機、イデオロギー論(階級観)と段階説とは併し、新しい実証主義的知識社会学者達によって問題の範囲外に追放された。まずそこにはデュルケムがある*。
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* 知識社会学に関するデュルケムの優れた思想は、原始民族社会に於ける宗教の土俗学的な材料の整理から惹き出される(〔E. Durkheim, Les formes e'le'mentaires de la vie religieuse〕 を見よ)。この点での実証的[#「実証的」に傍点]精神はコントの歴史哲学自身にはなかった。
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 コントに於ける、知識の神学的から実証的への歴史的発展[#「歴史的発展」に傍点]――そこにこそかの段階[#「段階」に傍点]があったのである――は、デュルケムに於ては、宗教からの認識の社会的発生[#「社会的発生」に傍点]として、再生される。二つの知識形態の段階上の推移は、知識一般のもつ発生条件の問題にまで変更される。従って、そこではもはや知識の歴史的段階などは問題となる余地はないだろう。尤も、原始民族の知識と文化民族の知識との間にはたしかに或る意味での段階的な隔りはなければならぬであろう、吾々の思惟の仕方と原始民族のそれとは根本的に別だということこそはデュルケム自身が証明する処の当のものであるのだから。だがそれにも拘らず、吾々文化民族の思惟の仕方一般を明らかにするためにこそ、抑々原始民族――但し現存の原始民族――の思惟の仕方が、方法論上[#「方法論上」に傍点]、必要であったということを忘れてはならない。と云うのは、社会学の方法は一般に、「歴史的方法」ではなくして「比較的方法」でなければならない、と考えられる*。そうすればそこではすでに、今云った――文化民族の知識内での――段階は平面化され、段階性を失って了っているではないか。この段階を平面化すること、之は特定の[#「特定の」に傍点]一定の方向に向って進歩するものとしての歴史の原理を、それだけ陰影の側に回すことを意味する、歴史的原理はそれだけ稀釈される、歴史とは今や単なる――非段階的な――発展でしかない。歴史的段階自身が平面化されるから、之に相応した夫々の政治的性格――階級性――は云うまでもなく完全に問題外に無言の内に押しやられる。コントに見た、かのイデオロギー論[#「イデオロギー論」に傍点]は回避される、階級性が逃避されたからである。――誠に之はコントの実証主義の正統的な継承でなければならない、何となれば実証主義が充分に歴史哲学であろうとする限り、それは結局実証主義ではあり得ないだろうからである。
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* 「社会現象を、夫がぞくしている時代的な系列から引き離すことが必要である」(〔Durkheim, Les re'gles de la me'thode sociologique, p. 154〕)。「同時的共変法」は「社会学的研究の優れたる道具である」(p. 162)。
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 知識の歴史的規定という知識社会学的問題――イデオロギー論が之を代表する――からの逃避は併しながら、之に代わるべき新しい知識社会学を積極的に開拓して見せることによって、至極目立たないように行なわれることが出来る。デュルケムの知識社会学はかくて、社会学的認識論[#「社会学的認識論」に傍点]という形を取らねばならない。
 カントの先験論的――論理学的――認識論は今や実証主義的――社会学的――認識論となる。範疇[#「範疇」に傍点]は先験的に演繹される代りに社会学的に実証される。元来、デュルケムによれば宗教は形而上学的な神学者や自然主義的な宗教学者達の考える処とは異って、社会的[#「社会的」に傍点]に発生した根本的な社会現象でなければならないのであるが*、認識は処で恰もこのような宗教意識によって限定され、そうすることによって初めて認識の形態を取ることが出来る、ということが証明される。で論理の範疇は全く、宗教的社会生活の現実的な諸関係から導き出されたものに外ならない。人間的思惟の内部的な構造は人間の実際的な社会生活――それが原始的には宗教的なのであるが――によって組み立てられ、そこから人間的思惟の発展が始まるのである、と説かれる。空間や時間も、夫々「社会的空間」と「社会的時間」とに基くのだ、というのである。
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* デュルケムはその社会学主義から云って、宗教が超社会的な起源を有つものではないことを、宗教こそが社会的所産であることを、証明しようと企てる(〔Les formes e'le'mentaires de la vie religieuse〕)。恐らく彼は之によって、社会が例えば経済的(又は政治的)に決定されるのではなくて却って宗教的に決定されるものだ、ということを云おうと企てているのではないだろう。処が例えば 〔C. Bougle'〕 は之を史的唯物論の反証として採用する。実は史的唯物論の準備としてこそ之は利用されるべきだと吾々は考える(引用の階級性の一例)。
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 社会はもはや、単に何かの理論や科学を外部から制約するだけではない、それは理論や科学の核心にまで、論理[#「論理」に傍点]の構成要素(範疇・概念)にまで、突き進む。かくて、論理[#「論理」に傍点]が社会的[#「社会的」に傍点]に説明しつくされるかのようである。――だがこの論理はまだ本来の論理ではなく、この社会はまだ本当の社会ではない。何故か。
 範疇乃至概念は、それ自身に於ては真理[#「真理」に傍点]でもなく虚偽[#「虚偽」に傍点]でもない、形式論理学に於ても真偽は判断まで来て初めて問題となる。範疇や概念自身は論理的に無記であることを一応人々は承認すべきだ。そうすれば範疇乃至概念は、確かに論理の要素であるにも拘らずそれ自身では論理的[#「論理的」に傍点]ではない、蓋し論理は価値に関わる、その価値が真理と虚偽とであった。であるから、範疇が社会的に決定されると云っただけでは、又は、それを基礎にして多少の展開を与えたとしてもそれだけでは、まだ本来の「論理[#「論理」に傍点]」が「社会[#「社会」に傍点]」的に決定されるということにはならないわけである。併し、もっと悪いことには、この「社会」すらがまだ社会ではない。なぜなら、社会の実質は歴史[#「歴史」に傍点]にあった筈だが、今は恰もこの歴史が結局、原理としては排斥されていた、優れた歴史的原理としての段階性は不問に付せられていた、からである。――人々は茲でも亦見るべきである、歴史的原理の不足は論理[#「論理」に傍点]の問題の不足を意味することを。
 単なる論理は真理と虚偽との論理的価値対立にまで、そして単なる社会は歴史的社会階級対立にまで、掘り下げられねばならない。それは論理及び社会という概念から云って已むを得ないことなのである。そうしなければ知識社会学の中核的な課題は掴めないのである。社会学的認識論は半途の知識社会学でしかない*。実際、そのことは、社会学的認識論のイデオロギー論からの逃避となって現われた。
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* デュルケムのテーマを広範に展開したものとして少くとも 〔Le'vy Bruhl〕 の名を挙げておくべきである(〔Les fonctions mentales dans les socie'te's infe'rieures〕 及び 〔La mentalite' primitive〕 其他を見よ)。
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 デュルケムの実証主義的な『社会学的認識論』を継承し、之を或る意味で拡張・補足しようとしたものは、W・イェルザレムの『認識社会学』である。
 デュルケムがカントのアプリオリ主義的な認識論に代わるべきものとして提出した社会学的認識論は、到底論理的アプリオリの説明にはなり得ない、デュルケム自身は之によってアプリオリ主義と経験論との長所を総合したかのように考えていても、アプリオリ主義に対するかかる譲歩は、ただアプリオリ主義の精神を誤解することによってしか行なわれるものではない、とそうイェルザレムは考える。アプリオリ主義にとって問題になるのは範疇の妥当性の問題であってその発生の問題なのではないが、デュルケムがあそこで解いた処は正にこの発生の問題でしかなかった、そうイェルザレムは考える。で、イェルザレムによれば、デュルケム及び其の派の人々の研究に於て、真に独創的にして意味ある部分は寧ろ、認識を理解するためには、認識過程の歴史[#「歴史」に傍点]を学ばねばならぬ、ということを実証的に証明したという点にあったのである。併しすでに吾々も見たように、この点はまだ必ずしも彼等によって徹底されたとは云われない。何故ならデュルケム達が明らかにしたのは、単に認識[#「認識」に傍点]がその歴史的発展過程に於て見られねばならないということにしかすぎず、その発展過程がどのような特定[#「特定」に傍点]の方向に向って行なわれるかをまだ必ずしも説明していなかったからである*。之に反して、イェルザレムに於てはこうである。人間の思惟は「社会的凝結」を以て始まる。人間は初め全く、その生活を従って又その精神を、社会によって束縛されたものとして有っていた。そこで、人間生活が群畜生活を抜け出す時初めて、社会的分化によって独立な人格が出来上る時初めて、人間はこの社会的凝結を抜け出て、事実と法則との客観的な認識を有つことが出来るようになるのである**。人間が社会的な束縛から解き放たれることによって初めて人々は理論的に物を考えることを学び、従ってこの時初めて凡そ科学なるものも成り立つことが出来る。このようにして社会的束縛から解き放たれることは併しながら、人間が孤立[#「孤立」に傍点]することを意味するのではない、人間は、個人的な独立[#「個人的な独立」に傍点]を得ることによってこそ、却って初めてコスモポリタン[#「コスモポリタン」に傍点
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