学が具体的になればなるだけ、即ち歴史的原理を顧慮に入れるだけそれだけ、論理との関係が愈々益々問題となって来なければならない。この極めて判り切った今までの結論は併し、必ずしも充分の注意を払われてはいなかったようである。人々は抽象的に、歴史と論理とを相互に相遠ざかる二つの方向として対立せしめて片づけるのを常とする。処が恰も知識社会学にとっては、この両つのものの切り合う一点にこそ、問題の中核が横たわっているのであった。この問題の中核がそして、知識の「イデオロギー論」であった。吾々はこの中核に従って、次に、他の人々の「知識社会学」を性格づけて行くべき順序である。
シェーラーの形而上学的[#「形而上学的」に傍点](一)な知識社会学は、主として実証主義的[#「実証主義的」に傍点](二)な夫に対立した。吾々は後に歴史主義的[#「歴史主義的」に傍点](三)な知識社会学を見ようと思う。この歴史主義的なものに対立しそして実証主義的なものからも又形而上学的なものからもみずからを区別する処の、自然主義的[#「自然主義的」に傍点](四)な知識社会学を吾々は持っている。ヴィルフレド・パレートのが夫である*。
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* V. Pareto, Trattato di sociologia generale に之を見る事が出来るという。私は主に H. O. Ziegler の紹介を通じて複写する外はなかった(H. O. Ziegler, Ideologienlehre, Archiv f. Sozialw. u. Sozialp., Bd. 59. 1927)。なお 〔G. H. Bousquet, Pre'cis de sociologie d'apre's V. Pareto〕 を見よ。
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一般に歴史は、パレートにとっては、何の発展を有つものでもない、コント風の知識の発展段階などはあり得ない。在るものはただ歴史に於ける――平衡の破壊とその回復とを通じての――「永劫の回帰」でしかなく、歴史はそのような循環運動に外ならぬ。今この歴史的回帰に於て常に変らない根本的な基体こそは人間性なのであり、歴史というようなものは却ってこの人間的存在からの一個の切り抜き[#「切り抜き」に傍点]に過ぎないものである。――人間の存在の基礎はそして、欲情と利害――そのような生物学的・本能的・衝動――でなければならない、そうパレートは考える。このニーチェ的な世界観乃至人間学はであるから、結局、歴史の原理的な支配を徹底的に拒絶することを意味し、従ってその限り、シェーラーと可なり近いものを示しているかのようである*。ただシェーラーに於ては一方歴史[#「歴史」に傍点]は、永劫の回帰としてすら問題となることが出来ず、又他方、生物学的[#「生物学的」に傍点]・本能的[#「本能的」に傍点]な諸力も、結局精神的[#「精神的」に傍点]な諸力によって統制されているという点にだけ、両者の間の相違が在るというに過ぎないように見える(第四章を見よ)。
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* 歴史的原理の否定は、取りも直さず、歴史的必然性の何等かの意味での否定である。そこでは歴史的必然性を攪き乱すものとしての偉人――偉人は必ずしも歴史的必然性の攪拌者であるとは限らないのだが――に歴史的自由が許される。ニーチェの超人はかくて山を下りローマの街へ進軍する。パレートの知識社会学がファシズムのイデオロギーへ一貫していることは、注意すべきだ。パレートの弟子ムッソリーニは、晩年のパレートをその腹心の一人に数えたのである。
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だがパレートの知識社会学にあっては、歴史的原理の代りに少くとも或る意味での実践的原理[#「実践的原理」に傍点]が支配している、ということは見逃してはならない。元来、歴史的原理が充分に歴史的原理としての資格を保つためには、それが同時に充分な資格に於て実践的原理でもなければならない、歴史的原理と実践的原理とは本来離れてはあり得ない――後を見よ。処で今茲で、歴史的原理の代りに実践的な原理が、従ってまだ充分な資格に於てではないが兎に角或る意味での[#「或る意味での」に傍点]実践的原理が、注目されている、というのである。何故なら、彼の社会学は一般に(Michels 等によれば)[#傍点]非論理的な行動の自然史[#傍点終わり]だと考えられることが出来るのであるが、この非論理的な行動の構造を特に取り出して分析するならば、それが取りも直さず彼の知識社会学――イデオロギー論――となるのだからである。パレートの知識社会学が或る意味に於て――但し行動を問題とするという意味に於てのみ――ともかく実践的原理を有つ所以である。之は無論シェーラーなどには欠けている一つの原理であった。
恰も前に、知識の歴史的[#「歴史的」に傍点]規定が限定されて行けば行く程、同時に知識の論理的[#「論理的」に傍点]規定が愈々限定されて行く、と云ったことに相応して、今、知識の実践的[#「実践的」に傍点]規定が同時に知識の論理的[#「論理的」に傍点]規定を意味するだろうことは、そうありそうなことである。実際、その関係は彼に於て、次のような形で現われる。
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(A)を人間の内部的な心理状態[#「心理状態」に傍点]とする、之は歴史の一切の変化を通じて不変な人間固有の常数である。之は云うまでもなく論理的ではない処の、非論理的な残留物[#「非論理的な残留物」に傍点]である。
(B)は(A)に基く処の、外部的な行動の過程[#「行動の過程」に傍点]であるとする。
(C)をそして、かかる(B)の、言葉=論理による是認[#「是認」に傍点]・理由づけ[#「理由づけ」に傍点]・権利づけ[#「権利づけ」に傍点]であるとしよう。
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そうすれば、前の所謂、非論理的行動[#「非論理的行動」に傍点]は必ずA→B→C(又は結局同じことに帰着するがA→C)という構造を、それの単位とするものである。と云うのは、人々は先ず第一に一定の意識(A)を持つことによって、第二に之に基いて行為し(B)、自己のこの行為を第三に合理化・正当化す(C)、という順序によって、その行動[#「行動」に傍点]――之が非論理的なのである――を終結することが出来る*。さてこの(C)が恰もイデオロギーに相当する処のものである、蓋し(C)は(B)乃至(A)の云わば上層建築に相当するのであるから。社会生活に於てはたとい絶対的なもの・真なるものと考えられるものでも、実は常に、様々な知識内容をば情意に基いた或る一つの連関にまで結合する処の、人間の本能の結果の外ではない。それはこの意識内容に対して、単に後から遅れ走せに、合理的な整合と正当性との外観を与えるための、導来物・合理的被覆でしかない、と考えられる。之がイデオロギーに相当する理由であった**。で、そうすれば茲では、真理の外観[#「真理の外観」に傍点]を有つ処の、併し必ずしも真理ではないもの[#「真理ではないもの」に傍点]としての、観念体系=イデオロギーが問題になっている。之は単に特殊な立場に対応する特定の観念体系だと云うだけではなくて、そうであるが故に絶対的には夫が真理性[#「真理性」に傍点]を有ち得ないものだ、ということが示されている。A→B→Cの構造の分析によって、真理価値[#「真理価値」に傍点]の問題が――イデオロギー論として――一応解明されることとなる。A→B→Cは今や論理学的[#「論理学的」に傍点]構造をも意味して来るわけである。であるからパレートは、非論理的行動を分析する点に於て、実は当然のことではあるが、論理[#「論理」に傍点]の構造を問題としていたということを注意しよう。それは、非論理的行動[#「行動」に傍点]の分析という、とにかく実践的[#「実践的」に傍点]な原理を用いた結果に外ならなかった。かくて実践的原理の適用は論理[#「論理」に傍点]の問題を惹き起こす。このような事情はシェーラーなどにはなかった。
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* 吾々が容易に連想するものは、リボーの『感情の論理』である。之は恐らく一般に、フランスの Moralistes 達の問題の一つであったと思われる。
** この合理的被覆を施すためには、必ず言葉――それが又論理であるが――を必要とする。それ故言葉は元来イデオロギーの性格を有っている。言葉は実際、この意味で言葉通りに修辞的であると云うことが出来る。修辞のイデオロギー性を明らかにしたのは、人間学の始めと称せられるアリストテレスの De Rhetorica であった。そこでは単なる論理的三段論法の代りに、政治的な修辞的三段論法とも云うべき Enthymema が分析される。
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だがこのように規定されたイデオロギーの概念はまだ甚だしく不充分であることを見ねばならない。観念の就中階級性格を有つものが優れた意味でのイデオロギーでなくてはならない、イデオロギーは政治――この歴史的原理――に関する。処でパレートにあっては、イデオロギーは単に主観的な政策[#「政策」に傍点]であって、歴史的な政治[#「政治」に傍点]的性格を有つ理由はまだ何処にもなかった。イデオロギーの論理的性質は、であるから、至極表面的なものに止まらざるを得なかったことは当然である。実際パレートは、どのようなイデオロギーがより虚偽であり又はより真理であるかを吾々に説明しない。どのイデオロギーも単に一個のイデオロギーとして、斉しく真理の仮面をかぶった仮象に過ぎないことを吾々は彼から聞くに過ぎなかった。イデオロギーの優劣を組織的に決定し得るような政治的標尺は問題となり得なかったからである。論理の問題を取り扱い得たように見えたパレートの知識社会学は、ただ最も表面的な論理の問題を取り上げたに過ぎなかった。
この不充分さは併しながら、初めから寧ろ当然だったのである。歴史的原理にまで多少とも近づくかのように吾々には見えた彼の実践[#「実践」に傍点]の概念は、彼自身にとっては実は、歴史的原理の積極的な反対物でしかなかった。実践とは単なる――行動主義的な――行為にしか過ぎず、政治――この歴史的なるもの――などでは到底あり得なかった。歴史は永劫の非歴史的な回帰である、歴史は歴史ではない。歴史的原理[#「歴史的原理」に傍点]のこの否定が、論理[#「論理」に傍点]の問題を皮相的なものに終らせたのであった。――実践[#「実践」に傍点]概念は歴史[#「歴史」に傍点]概念と結び付かない限り、論理[#「論理」に傍点]の問題を解くことが出来ない、之がパレートに於て得た吾々の結果である。
形而上学的(シェーラー)及び自然主義的(パレート)知識社会学に反して、実証主義的知識社会学は元来、歴史的原理の尊重から出発している。コントの知識社会学が歴史哲学の否定でもなく又否定的な歴史哲学でもなくて、正に一つの肯定的な歴史哲学であったことを、人々は重ねて思い出さなければならない。処が、この歴史哲学としての実証主義的社会学がそれ自身の矛盾のために、――そしてこの矛盾は当時のフランスの社会状勢の単なる反映に外ならないのであるが、――もしみずからに特定の階級性を判然と許さないならば、必然に歴史的原理の放擲へ、歴史哲学の断念へ、辿りつかざるを得なかった、その経緯を吾々は已に見た。シェーラーやパレートの知識社会学はとりも直さずこのような事情の表われの他の一つだったのである。――だがこの推移の過程は実証主義の今云った反対者にばかり見出されるのではない。寧ろ今日[#「寧ろ今日」に傍点]の実証主義者の陣営に於てこそ、この推移の結果は着目に値いする。
人間の知識はコントによれば、神学的段階から実証的段階に向って、発展し又進歩する。この段階的[#「段階的」に傍点]発展は単なる無段階的な発展とは異って、このような特定方向への[#「特定方向
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