証科学を知識の最高形態と考える実証主義[#「実証主義」に傍点]は、彼によれば偏狭な「ヨーロッパ主義」に外ならないのだそうだからである。ここでは彼は至極コスモポリタンらしく物語る。ヨーロッパ人の知識のみが知識の標準にはならない、と。併しこのコスモポリタンはただ、インターナショナルであり得るものは科学だけで、哲学は国民的[#「国民的」に傍点]・民族的[#「民族的」に傍点]でなければならない、という主張をするためにのみコスモポリタンであらねばならなかったのである。コスモポリタニズムは実はインターナショナリズムの否定であり却って民族主義の弁護なのである。コスモポリタニズムとインターナショナリズムとのこの可なり苦しい対立の矛盾は、コントの実証主義が何かの意味で――コント自身の認める通り――階級性[#「階級性」に傍点](この歴史的原理)を持つことを否定しようとするためにこそ発生する。コントの実証主義は一つの階級[#「階級」に傍点]――コントに於ける歴史のこの実践的原動力――のものではなくて正にヨーロッパ人[#「ヨーロッパ人」に傍点]のものである、とそう云わねばならない理由が何処かに在ったからである。――歴史性・階級性を無視するために、特に地理性・国民性を持ち出すことは、今日では最もあり振れたファシズムのイデオロギー公式である*。
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* K. A. Wittfogel, Geopolitik, geographischer Materialismus und Marxismus. (Unter dem Banner des Marxismus. ※[#ローマ数字3、1−13−23]) を参照せよ。
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 実証主義が「ヨーロッパ主義」であるかどうかは知らないが、少くともコント自身によればそれは何よりも先に「プロレタリア」の科学であった――但しこのプロレタリアは条件付きではあったが。実証主義はコントによって或る一つの階級のイデオロギーとして自覚[#「自覚」に傍点]されることによって初めて提出されたのが事実である。之をヨーロッパ主義として性格づけることは、之が階級理論に立脚していることを隠蔽することである。それは隠蔽である、何故なら、シェーラー自身或る個所で、階級理論に立つかのマルクス主義が結局実証主義[#「実証主義」に傍点]に外ならぬと主張しているのだから。
 この隠蔽、階級理論の無視、は何故必要であったか。之は何もシェーラー一人にとって必要なことではない。――シェーラーはコント程に正直でなかったのか。併しヨーロッパ[#「ヨーロッパ」に傍点]の、そして(コスモポリタンの意志に反して)、それは又同時に国際的世界[#「国際的世界」に傍点]の、資本主義[#「資本主義」に傍点]はその間に八十年の発展を遂げている。コントの同時代者マルクスが肯定の内に否定を見た処のものに、シェーラーは肯定の内に否定を感ぜ[#「感ぜ」に傍点]ざるを得なかっただろう。この感覚が彼をして特にコントの実証主義を敵手として選ばせるに充分だっただろう。併しシェーラーの――自覚すると否とに拘らず――真の敵はコントに在るのではない、コントは彼にとって単に味方からの一人の古い裏切者にしか過ぎない。サン・シモンに於けるコントのかの相弟子マルクスこそ正にシェーラーを脅かしている当のものである。否問題は、此かれの個人に対する敵対にあるのではない、その個人が代表する学派――例えば現象学派に対するマルクス主義――にあるのでもない。問題はそういう学派が生じ得た歴史的地盤にあるのである。そしてそのような歴史的地盤は無論単に学派を産むだけのものではない、それは一切のものを産む。この地盤が階級となって現われるのである。現代に於ける一切の複雑な階級乃至身分の歴史的乃至同時代的交錯は、愈々益々ただ二個の階級性格に帰着しつつあるだろう。夫々の階級は各々みずからを全体社会[#「全体社会」に傍点]だと考え又はあろうと欲する。部分は全体を代表する、それは単なる部分ではなくて動的な・実践的な・弁証法的な対立した[#「対立した」に傍点]部分である。――階級はかかる階級対立[#「対立」に傍点]としてしかない。そこで、シェーラーの階級はそのまま全社会であるかのように見える。従ってそれはヨーロッパそのものであることが出来そうである(茲で彼自身は却ってヨーロッパ主義者であることを注意せよ)。それ故シェーラーの階級の没落は即ちヨーロッパ自身の没落でなければならない、「ヨーロッパ主義」はそれ故にこそ没落せねばならなかった。
 一階級の没落の無視を合理化するには併しながら、合理化する主体の個性的・性格的条件に制約されることが必要である。そこで、「労働の知識」である実証科学は「教養の知識」である形而上学に、そしてこの形而上学は又「救済の知識」である宗教に、奉仕しなければならない(前を見よ)。労働は教養に、教養は信仰に、奉仕せねばならぬ。労働者は市民に、市民は僧侶に、奉仕せねばならぬ。それに対応して物質的な歴史社会[#「物質的な歴史社会」に傍点]は人格的個人[#「人格的個人」に傍点]に、人格的個人は絶対的神[#「絶対的神」に傍点]に、その概念の高貴の度に於て、カトリック風な教職段階をなして下属する。神に於ては一切のものは永遠[#「永遠」に傍点]の相の下にあるであろう、かの歴史的原理[#「歴史的原理」に傍点]の如きは悪魔である。真理[#「真理」に傍点]はこの悪魔に渡されてはならない。だから真理は歴史的原理によって支配されてはならないのである。

 シェーラーの所謂「知識社会学」――彼によって初めて本当のものとなったという――を吾々は今や、知識社会学の中心的な課題から特色づけることが出来る*。
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* シェーラーは知識社会学の問題として次のようなものを列挙する。一、科学が如何にして「文化的精髄を持ち」得るか。二、科学に於て何が文化的精髄を持ち、之に反して何がそのような特殊の表示形態から独立して「真なるもの」であるか。三、如何なる科学が共働作用を許すか、インターナショナルであり得るか、そしてどのようなものがそうでないか。四、如何なる科学とその科学の如何なる部分が民族文化が亡びても残るか(〔Scheler, U:ber die positivistische Geschichtsphilosophie des Wissens.〕)。――併し問題は羅列されることを許さない、必ず中心的な問題がある筈である。
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 知識の社会学に於て、吾々は二つの概念の結び付きを見る。知識と社会。この二つが結び付くには併し二つの概念は夫々特有な特別な規定を与えられて来なければならない。まず知識の方は単なる知識としてではなくて一つの社会的存在としての知識となる。処が社会は又単なる社会ではなくて歴史社会でなければならない。そこで知識は、社会に於て歴史的に発展すべきものとして、問題とならざるを得ない。それは歴史的に変化する一つの社会的存在[#「社会的存在」に傍点]である。だが知識はそれが知識であるからには単に変化するだけではなくして、歴史の内で進歩乃至退歩するものでなければならぬ。と云うのは、知識は進歩乃至退歩によって真理への接近又は虚偽への偏向を意味しなければならない。そこで知識の社会学に於ては知識は、真理への歴史的な接近、乃至虚偽への歴史的な偏向、をなす一つの社会的存在として規定されねばならない。之が知識社会学の一般的な対象――問題――となる。シェーラーの知識社会学は処でどのような問題を解いたか。
 彼に於ては、知識は真理乃至虚偽――論理的価値――から全く引き離されて初めて問題となることが出来る。それは取りも直さず知識が充分にその歴史性[#「歴史性」に傍点]に於て捉えられなかったがためである。論理は元来――之こそ知識の性格であるが――歴史性に於て、歴史的原理を持つものとして捉えられていなかったのだから、この論理から歴史的原理を天引するということすらが彼の問題となることが出来ない。それ故論理は彼の知識社会学の興味の対象となることは出来ない、論理は当然に知識社会学の問題の圏外に逸して了わなければならないのである。知識社会学[#「知識社会学」に傍点]が論理学[#「論理学」に傍点]と全く無関係であり得るかのように考えられるのは至極当然なこととなる*。従って又同時に、歴史性の原理にぞくすべき階級[#「階級」に傍点]は、高々単なる知識[#「知識」に傍点]と関係し得るだけであって論理[#「論理」に傍点]とは少しも関係すべきでないと考えられるのも至極尤もなこととなる。それ故、知識に関するイデオロギー[#「イデオロギー」に傍点]の理論は――イデオロギーの大事な一特色は夫の階級性にあるのであるが――、知識の真偽内容[#「真偽内容」に傍点]とは少しの交渉も持たされない、知識のイデオロギー論は論理学から完全に引き離される義務があるわけである**。
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* 「ただ精神的労作の名声と通用だけがみずからの社会学を持つ、或る労作の意味内容と価値内容は社会学を持つことが出来ない。」(M. Scheler, Weltanschauungslehre, Soziologie und Weltanschauungssetzung.)
** 彼によれば、階級的科学という問題は、論理の問題ではなくして、単に「社会学的な偶像論」にぞくすべきものでしかない(Die Wissensformen und die Gesellschaft)。――併しフランシス・ベーコン自身はその論理学[#「論理学」に傍点](Novum Organum)の劈頭に、かの有名な「偶像論」を掲げたのであった。
 シェーラーはそして、真の哲学と科学とを妨害する運動の一つに就いて云っている、「プロレタリアのマルクス主義的階級イデオロギーが、誤って、ブルジョア科学に対するプロレタリア科学というような何か特殊な科学ででもあるかのようなものにまで引き上げられている、まるで科学が(イデオロギーから区別されたる科学が)或る階級の有つ機能ででもあり得るかのように」と(M. Scheler, Formen des Wissens und Bildung, S. 10)。――イデオロギーは論理と無関係である、だからプロレタリア科学[#「プロレタリア科学」に傍点]などは存在し得ない、と云うのである。
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 だが論理と完全に無関係に止まっていることの出来るような知識のイデオロギー論は、元来、充分な意味でのイデオロギーの理論であることは出来ない――吾々は夫をすでに第二章で述べた。知識のイデオロギー論は、イデオロギーの論理学を含まずには成り立たない。何故なら、イデオロギーという概念それ自身がすでに、それが知識に関する限り、真理[#「真理」に傍点]と虚偽[#「虚偽」に傍点]との関係を離れては無意味だったからである。蓋し知識としてのイデオロギーの特色は、一定の理由で、真理だと思われているものが実は虚偽であったり、又は虚偽だと云われるものが却って実は真理であったりするような、歴史的弁証法的なものなのだから。

 マックス・シェーラーは彼の知識社会学から、歴史的原理[#「歴史的原理」に傍点]を完全に追放する。かくて階級性[#「階級性」に傍点]は無論のこと追放される。このことは併し、同時に、その知識社会学から論理[#「論理」に傍点]の問題を完全に閉め出すことを結果する。真理[#「真理」に傍点]・虚偽の価値関係[#「虚偽の価値関係」に傍点]は閉め出される。
 一般に知識社会学に於ては、歴史の否定は同時に論理[#「論理」に傍点]の否定を意味するだろう、それを吾々は今シェーラーに於て代表的に見たのである。

[#3字下げ]二[#「二」は小見出し]

 問題が知識の問題であるだけに、知識社会
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