T点]を喰い止めるべき歴史的使命を負わなければならぬ。併しそのためには、精神――即ち又文化――を、その従来の高踏的な君臨の王座から引き降ろし、之を出来るだけ他のものに対して譲歩させる外に、もはや道は残されていない。そうして後に却って初めて、精神は、文化は、救済され得るだろう。――マックス・シェーラーの「文化社会学」はそこで、恰もこう云った謂わばメシア的予言を背景として現われる。
マックス・シェーラーの文化社会学は、文化に於ける精神[#「精神」に傍点]が、文化ならぬ他のものに対して譲歩せねばならぬということから、その問題を始める。
彼は人間の歴史的・社会的・生活の内に、実在的要因[#「実在的要因」に傍点]と観念的要因[#「観念的要因」に傍点]とを区別する。人間の主体にとって前者に相当するものが生命の根本動力としての衝動[#「衝動」に傍点]――栄養・生殖・権力の――であり、之に反して後者に相当するものが所謂精神[#「精神」に傍点]である。――今前者に就いては、人間的衝動の根柢理論として実在社会学(Realsoziologie)が成り立ち、之に反して後者に就いて、精神の理論として成り立つものが、とりも直さず、彼の文化社会学[#「文化社会学」に傍点](Kultursoziologie)なのである*。
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* [#横組み]M. Scheler, Probleme einer Soziologie des Wissens (in “Versuche zu einer Soziologie des Wissens”)[#横組み終わり](之は Wissensformen und die Gesellschaft に含まれている)S. 36 ――なおシェーラーの知識社会学[#「知識社会学」に傍点]はこの文化社会学の一部分である。
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かくて衝動は、人間生活の下部構造[#「下部構造」に傍点]に相当し、之に反して精神は、その上部構造[#「上部構造」に傍点]に相当する。と云うのは、前者は――E・フッセルルの現象学的術語を使えば――基底(Fundament)であり、そして後者が之によって基底づけられた(fundiert)ものに外ならぬ、と云うのである。衝動は、その現象学的構造[#「構造」に傍点]・本質法則[#「本質法則」に傍点]から云って、精神に先立つ。このことは併し、シェーラーに特有な現象学の方法に従えば、決して、単に静止的・超時間的な本質関係を意味するだけではない、衝動と精神との上下のこの階層関係は、社会の歴史的発展[#「発展」に傍点]に際しても亦行われるのでなければならない、この関係は亦発展[#「発展」に傍点]・前進[#「前進」に傍点]・法則[#「法則」に傍点]でもなければならない、と彼は主張する*。――実際、現象学的な所謂本質に、この意味に於て可変的[#「可変的」に傍点]な性質を与えるのでなければ、歴史的社会的存在の「現象学」的分析ほど、無意味なものは又とあるまい。
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* Probleme, S. 12.
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精神は衝動の上部構造である、歴史的社会――それはシェーラーによれば要するに人間[#「人間」に傍点]生活である――の根本動力は、従来の有態で露骨な観念論の体系とは反対に、精神ではなくて却って生物的な衝動であった。精神は今やその限り少くとも衝動の前には譲歩しなければならない。
そこで精神はシェーラーによって、極めて謙遜な役割を振り当てられることとなる。精神それ自身は、根本的には可能的な文化内容を実現[#「実現」に傍点]する力[#「力」に傍点]とか働き[#「働き」に傍点]とかいうべきものを少しも持っていない。それは単に文化内容の可能的な様態を予め[#「予め」に傍点]決定出来るだけである。精神は本来から云うと、文化内容の決定要因[#「決定要因」に傍点]ではあっても、決してまだその実現要因[#「実現要因」に傍点]ではない。この可能的な文化内容に選択[#「選択」に傍点]を施すことによって、之を実現に齎す処の要因――その意味に於ては消極的な[#「消極的な」に傍点]実現要因――は、精神自身ではなくて、却って実在的・な衝動による・生活諸関係なのである*。――原理的にすでにそうであるが、文化の実際の歴史的内容になると、即ち一定の実在的要因と一定の観念的要因とがすでに結合して与えられている文化の実際内容になると、之に対する精神の働きかけ方は、更に一層制限されて来る。こう云った文化内容が新しく可能的になる[#「可能的になる」に傍点]ためにも――前の場合よりも一段前である――もはや精神は無力である。この文化内容が可能的になること自身[#「なること自身」に傍点]の、可能性も実現も、すべて実在的要因によって決まるのであって、かくて精神に残されるものは、わずかに、かかる文化内容が[#傍点]可能になること自身の可能性[#傍点終わり]の内から、或る要素を阻止[#「阻止」に傍点]し他の要素を解放[#「解放」に傍点]することによって、この可能性に動向を与え・嚮導し・浮きを与えるという、消極的な実現者の意味だけとなって了う**。――尤も実在的要因を一応無視した限りの純粋に文化的[#「純粋に文化的」に傍点]な、意味[#「意味」に傍点]内容(Sinngehalt)――併しそれは具体的な文化[#「文化」に傍点]内容(Kulturinhalt)ではない――に就いては、精神はなお積極的な役割を果すと考えられて好い。少数の[#傍点]択ばれた人々の自由意志[#傍点終わり]が、そこでは之を実現する積極的な要因とも考えられる。この点を考慮に入れれば、精神と衝動的なものとは、云って見れば互角ともなるだろう。衝動的な実在要因は、精神によってモディファイされるべき因果[#「因果」に傍点]であり、之に対応して精神的・文化的な要因は、衝動によってモディファイされるべき自由[#「自由」に傍点]であると考えられる***。
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* Probleme, S. 8―9.
** Probleme, S. 9―10.
*** Probleme, S. 9, 11, 37 ――なお、精神又は自由を、因果的自然必然性に対して、消極的な役割―― Lenkung, Leitung, Suspension 等――を果すものとして制限し、従って又その限り肯定しようとする彼の企ては、全くH・ドリーシュの生気説[#「生気説」に傍点]――ドリーシュの言葉によれば又目的論[#「目的論」に傍点]――の思想の複写である(第三章参照)。
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そう考えれば精神は衝動に対して高々互角であるに過ぎない。だが実際は、人間社会の歴史的運動の要因として、依然として、精神は衝動の下位に立たねばならない結果になる。それはこうである。シェーラーによれば、歴史は時代々々によって、歴史決定の支配的[#「支配的」に傍点]な要因を異にする、夫は三つの段階に分かたれる。第一は性・血液・人種の関係が支配的である段階、第二は政治が支配的である段階、第三は経済が支配的である段階(之は無論量質的人口諸関係・権力諸関係・経済的生産諸関係・という社会学者風の三概念に対応している)。そして、第一の段階では、精神が衝動的な実在要因を阻止すること最も大(解放は従って最小)であり、第三の段階では之に反して、この阻止が最も小(解放は従って最大)である、というのである。即ち、謂わば民族主義的な時代には、精神的要因が歴史的要因として比較的有力であり、之に反して経済主義――もしそういうものがあるなら――的な時代には、夫が比較的弱い、というわけである。さてこの三段階の交替は処でシェーラーによって、何から説明されるか。外でもない衝動[#「衝動」に傍点]からなのである。この三つのものは――前に述べた――性欲・権勢欲・食欲の三つの根本衝動によって、初めて区別される外はない*。衝動が精神を決定するのであって、その逆ではない。
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* 以上は Probleme, S. 9, 31 を見よ。
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かくて結局シェーラーの文化社会学によれば、精神[#「精神」に傍点]は、即ち又文化[#「文化」に傍点]は、衝動[#「衝動」に傍点]の前に、譲歩[#「譲歩」に傍点]しなければならない。――アルフレッド・ヴェーバーの文化社会学にとって、あれ程審美的・唯美的・な本質であった処の高踏的な「精神」――文化――は、茲まで来ると、現実的な、あまりにも非唯美的な、衝動[#「衝動」に傍点]を背景に有たねばならぬこととなる。かしこに於て創造の力を有っていた精神――文化――は、茲では単に衝動に対する消極的な嚮導[#「嚮導」に傍点]だけをその役割として残される。文化・精神は、シェーラーによって、そのドイツ観念論的な王座からひき降ろされる。
だが、精神・文化は、このようにして譲歩[#「譲歩」に傍点]するのでなければ、もはや救済[#「救済」に傍点]され得ない。シェーラーによれば、ヨーロッパ文化だけが唯一の文化ではない、世界の文化は複数[#「複数」に傍点]なのだ、ヨーロッパ文化は東洋的――例えば印度・支那――文化と平均されることによって、却って現在の実証主義の圧迫から遁れることが出来る。――文化を文明[#「文明」に傍点]から護るためには(元来ドイツ的であった)文化を、東洋其他にまで、コスモポリタン化されねばならぬ(ショーペンハウアー等を見よ)。そうすることによって初めて、ドイツ文化もドイツ文化として蘇生出来ようというわけである。之こそドイツ文化社会学のカトリック的使命ではないか。――であるから、シェーラーによる文化の譲歩[#「譲歩」に傍点]は、実は却って、文化[#「文化」に傍点]の文明に対する勝利[#「勝利」に傍点]を意味する。精神は、例えば全く東洋の生活術の通り、物質に譲歩することによって物質に打ち勝つ。で結局、シェーラーの文化社会学――その内容は結局知識[#「知識」に傍点]社会学なのだが――は、ヴェーバーの場合と同じに、文明に対する文化の優越を説く処の、その名の通り、文化社会学でなければならない。
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* Probleme, S. 39 ff. ――シェーラーが、文化と文明とを如何に峻別したか、即ち宗教・形而上学と実証的知識とを如何に峻別したか、それが又如何に、反実証主義的・歴史主義的方向に於てであったか、などに就いては第五章を見よ。なお第四回ドイツ社会学会(一九二四)に於て、Wissenschaft und soziale Struktur と題して行われたシェーラーの講演と、之に対するM・アードラーの批評とを見よ。
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マックス・シェーラーの文化理論の何より著しい特色は、生物的生命の原理=衝動をば、敢えて文化の史的発展の基底に据えたという点にある。そこで人々はすぐ様、G・フロイトやA・アードラーの、精神分析理論を思い出さざるを得ないだろう。実際、精神分析の[#「精神分析の」に傍点]理論に従えば、一般に文化は、衝動――広義に於ける性衝動・又は権力への意志――を終局の原因とする。この点で、それはシェーラーの衝動理論と好く似ているようにも見える。
だが、今は区別が大切である。衝動[#「衝動」に傍点]を阻止し又解放するものは、シェーラーにとっては、正に精神そのものであった。衰えたりと雖も精神はそこではとにかく、衝動に対立する独立[#「独立」に傍点]の原理となって登場する。処が精神分析によれば、精神それ自身が初めから衝動的[#「衝動的」に傍点]本質と考えられる。だからこの衝動即ち又精神を、阻止し解放するものは、もはや精神自身である筈がない。フロイト主義によれば夫が、社会[#「社会」に傍点]でなければならなかっ
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