** Ideen, S. 41―42.
*** 以上は Ideen, S. 40―42[#「S. 40―42」は底本では「S 40―42」], 44, 48 を見よ。
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 文明と文化とがこうやって圧倒的に区別されて来ると、二つのものの間の価値の高下はすでに明らかである。文化は、人々が私的生活をさえ犠牲にしなければならない人格的――倫理的――な規範となる。文化に左袒すべきである人格は、文明過程の客観化物――経済・法律・更に又国家までも入れて――と戦わねばならない当為[#「当為」に傍点]を有つ。文明は文化の敵である。嘗てスコラ哲学の時代又シェークスピアやミケランジェロの時代には、文化は具体的な内容を有っていた、それがデカルトの合理主義と普遍化主義によって、内的形象を失って外的形態に支配される世の中となった。かくて現代は機械論[#「機械論」に傍点]の支配の下に立たされている。夫々の時代は夫々の時代に特有な文化を持つが、現代の文化が機械論にまでなり下ったことは誠に悲しむべき現象だ、と彼は慨嘆するのである。だが「予言者」の常として、彼は決して希望を失わない、だから吾々は須らく現代の機械主義を超越すべきである、汎科学主義[#「汎科学主義」に傍点]は去れ*。
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* 以上 Ideen, S. 40, 45, 47 を見よ。
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 ヴェーバーによる、審美的・ロマン派的な、そして形而上学的・宗教的な、芸術家風にして予言者風な文化[#「文化」に傍点]の概念は、おのずから、彼の文化社会学[#「文化社会学」に傍点]そのものを、科学の或る一定の類型にぞくせしめざるを得ない。吾々は今之を解釈学的なものと呼ぶことにしよう*。
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* 解釈学的な見地に立つ理論は、存在を変革する代りに之を解釈[#「解釈」に傍点]する。と云うのは、存在[#「存在」に傍点]の代りに存在の意味[#「存在の意味」に傍点]を解釈するのである。存在と存在の意味とをすりかえる点に於て、夫れを正当には形而上学的[#「形而上学的」に傍点]と呼ぶべきだと吾々は考える。――最近H・フライアーはそういう理論を一括して「ロゴス科学」と名づけた。彼に従えばディルタイこそそういう科学の多くの代表者の一人である(H. Freyer, Soziologie als Wirklichkeitswissenschaft, S. 21 ff.)。
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 彼によれば文化――そして之は間接にはその対立物である文明をも部分として含まねばならなかったが(初めを見よ)――は、精神[#「精神」に傍点]の、社会に於ける表現[#「表現」に傍点]である。夫は人間の生活結合と之に応じる態度との表現であり、心的本質[#「心的本質」に傍点]の心的表現[#「心的表現」に傍点]なのである。精神はこの表現を通して、文化的面貌[#「文化的面貌」に傍点]・文化的骨相[#「骨相」に傍点]を示す。そこには歴史的・社会的 Konstellation が与えられる*。――だが読者は注意しなければならない、表現という概念が本来芸術=詩にプロパーなものであったという点を。審美的象徴こそ表現のプロパーな特色ではないか。そうすれば表現がすぐ様、第一に個性的・個体性格的・な表現を意味せねばならぬことは至極尤もだろう。――で精神のこの表現である文化は、おのずから個性的・個体性格的なものと考えられるのも当然である。実際ヴェーバーによればそれは一回的な完了物であった。だからそこで普遍化的・合理化的・な因果づけや進歩観が支配的であり得なかったのは初めから当然である。従って又文化は高々類型化される外に途を有たなかったのである(前を見よ)。
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* Prinzipielles, S. 29, Ideen, S. 10―12, 15, 27―28 を見よ。
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 表現は――この概念の性格から云って――常に類型的でしかない。で文化は、文化社会学によれば、形態学的[#「形態学的」に傍点]に取り扱われる外はなくなる。文化社会学は「文化形態学」となる。ヴェーバーはこの科学をゲーテが行なおうとした自然の形態学[#「自然の形態学」に傍点]の仕事に較べている、それは文明進化論などに較べれば一つの新しい科学[#「新しい科学」に傍点]である、と彼は宣言するのである*。――形態学的見方は、類型化的方法は、併し、凡そ事物を説明[#「説明」に傍点]することは出来ないし、又それを企ててはならない。与えられた与件を他の与件にまで分解して了う――因果的説明はそうである――代りに、与えられた全体をそのものとして、そのまま受容することが、この方法の本来の願望である。まして表現に就いては、之を説明するという言葉自身が無意味だろう。表現は理解[#「理解」に傍点]される外はない。表現の唯一の認識範疇は理解である、そして理解されたもの同志の連関を理解することが解釈[#「解釈」に傍点]である。文化は、それが精神の表現である限り、理解される外に、通路は持たない**。文化社会学が解釈学的である所以が之である。
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* Prinzipielles, S. 43; Ideen, S. 51 参照。
** Ideen, S. 14 参照。
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 かくて、文化社会学の根本的な特色は、その観想的[#「観想的」に傍点]な性格に帰着する。なる程この文化社会学は、先天的と考えられたような所謂文化哲学乃至歴史哲学ではなかった、それは社会という現実の存在にその足場を求める、即ち又歴史そのものの内部にまで足を踏み立てねばならなかった。だからヴェーバーはこの科学を現在の問題[#「現在の問題」に傍点]から出発せしめる。だからそれは時代々々の、又は之を代表する人々の、観点[#「観点」に傍点]に制約されるという本質を有っている。文化社会学は単なる純粋認識[#「純粋認識」に傍点]や純粋理論ではない。それだけ之は実践的なものに制約されていなければならないように見える。文化の創造は、現在的[#「現在的」に傍点]・実践的[#「実践的」に傍点]・な精神的行為と考えられる。――だがこうした現在観とそれに伴う限りの実践的見地も、単に、殆んど凡ての歴史主義[#「歴史主義」に傍点]が得意とする処のものに過ぎない*。そういう実践的見地がなお非実践的・観想的であり得或いは寧ろ常にそうである外はないということ、それを今日人々は、多くの例で見ることが出来る。ここで認識乃至理論を決定するものは解釈に外ならなかったが、処が、この認識乃至理論を、真に実践的な――物質的な――実践につきあてて見るのでない限り、解釈は実際自由に何とでも付くものである。従ってそこには結局何の客観性[#「客観性」に傍点]も成り立つことが出来ない筈である。先に観点と呼んだものは、実は客観性のこの否定に外ならなかった。ヴェーバーによれば文化社会学にとっては、根本材料を外にして、正確な論証[#「正確な論証」に傍点]を求めることは許されない(彼は之をその集団主義的[#「集団主義的」に傍点]見地からの結論だと考える)。個人主義的見地に立つマックス・ヴェーバーが指摘したような社会科学の客観性[#「客観性」に傍点]――客観的可能性[#「客観的可能性」に傍点]や評価からの超越[#「評価からの超越」に傍点]など――は、あまりにも合理主義的でありすぎた、というのである。文化社会学の理論が、如何に非実践的・観想的なものに甘んじるかは、この点からも明らかだろう**。――併し解釈学的なものは本来常にこうある外はない。
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* ヴェーバーの文化社会学は併し、汎歴史主義[#「汎歴史主義」に傍点]に反対する、歴史は常に永遠なるものによって裏づけられている。その限り之は単なる歴史主義――相対主義――ではないかのようにも見える。だがそれが理論自身の客観性の問題になると、完全に相対主義=歴史主義を暴露する(次を見よ)。そうして文化社会学が結局、所謂歴史主義の一つの変容に過ぎなかったことを証拠立てる(Ideen, S. 49 参照)。
** Ideen, S. 20―25 を見よ。
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 最後に吾々は云うことが出来る、ヴェーバーの文化社会学[#「文化社会学」に傍点]、それは恐らく、ドイツ乃至其他の所謂「文化社会学」を最もよく代表するものであるが、夫は、ドイツの[#「ドイツの」に傍点]形而上学的・宗教的・観念論[#「観念論」に傍点]の、解釈学的[#「解釈学的」に傍点]な――ロマン主義的・歴史主義的な――合理化の一つの形式である、と。そこで取り扱われた文化の概念は、外でもない、ドイツ民族精神[#「ドイツ民族精神」に傍点]の概念によって貫かれている。
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* だからヴェーバーは当然、自然主義的・唯物論的・歴史観を呪わざるを得ない。彼はE・トレルチの、精神と自然との――公平な――二元論にさえ反対する。唯物史観に於ける社会の上部構造[#「上部構造」に傍点]などという範疇は――この言葉はM・シェーラーさえが使っているが(後を見よ)――文化社会学の傍あたりへさえ寄ってはならない(Ideen, S. 27―8)。
[#ここで字下げ終わり]

[#3字下げ]三[#「三」は小見出し]

 さてこうした性格を固有している所謂「文化社会学」の主張を、例えばマルクス主義的文化理論乃至社会理論の成果と、直接に対決させて見ることは、可なり野暮なことだろう。吾々は別な途を択ぼう。
 ドイツ民族精神の哲学は、或る意味に於て、すでにヘーゲルを以て終っている。ヘーゲル以後ドイツ民族的「精神」の正面的な・体系的な・無条件な肯定の哲学[#「哲学」に傍点]――(今の場合の)社会学[#「社会学」に傍点]ではない――はもはや見ることが出来ない。その後に見られるものは高々、超歴史的な単に一般的な範疇として理解された限りの、イデーとか「文化」とか「精神」だけであると云って好いだろう。そしてヘーゲルの「精神」の哲学は、マルクスの「物質」の哲学――だがそれが「社会学」ではなかったことを忘れるな――によって代られた。処が物質の哲学はもはやすでに「哲学」ではない、でドイツ[#「ドイツ」に傍点]観念論哲学は或る意味に於て、ここに終ったのである。
 ドイツ民族は、即ち又ドイツ国家は、過去数十年来あれ程目醒しく台頭して来たにも拘らず、今日ではすでに、全く行きづまって了った。大戦後のドイツは、例えばナポレオンに征服されたドイツ――そこにはヘーゲルが生きていた――とは、全くその発展の切線方向を異にしているのを見ねばならぬ。かしこにはドイツ新興資本主義の隆々たる前途があり、ここにはその垂直的な下向線がある。今や、問題はドイツ[#「ドイツ」に傍点]の没落[#「没落」に傍点]と救済[#「救済」に傍点]とでしかない。救済主はアメリカであるかソヴェートであるか、それともヒトラーであるか。これは経済的・政治的な問題である。――だがドイツ民族的「精神」は、ドイツ的「文化」は、又この問題と平行しないではいない。ドイツ的精神・文化も亦今や没落[#「没落」に傍点]に瀕している。それは救済[#「救済」に傍点]されねばならない。だがドイツ精神・ドイツ文化はヨーロッパ(及びアメリカ)精神・文化の、代表者でなければならなかった。だから問題は、ヨーロッパ(及びアメリカ)精神・文化の没落と救済との問題である。――恰も、債務者ドイツの救済は英米仏の又ドイツそのものの資本主義自身の救済であるように。
 そこでわが文化社会学はどうなるか、文化[#「文化」に傍点]社会学は同語反覆的に、文化の[#「文化の」に傍点]――即ち又精神[#「精神」に傍点]の――没落[#「没落」に
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