Bそういう歴史社会学――歴史理論――が即ち文化社会学に外ならない、と彼は主張する*。
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* Ideen, S. 4―8.
[#ここで字下げ終わり]
 もしそうならば、文化社会学は要するに歴史哲学[#「歴史哲学」に傍点]ではないか、と問われるだろう。実際それは歴史哲学から発生し、従って又歴史哲学を背景としている筈であった。それは歴史哲学の一つの新しい形態[#「新しい形態」に傍点]に外ならない。――だが歴史哲学が、何か先天的[#「先天的」に傍点]な歴史理論であったに反して、而も之と平行して、文化社会学の仕事は、ひたすら実証的[#「実証的」に傍点]・経験的[#「経験的」に傍点]・な研究に基かなくてはならない、夫は帰納的[#「帰納的」に傍点]方法を用いなければならない、と考えられる。なる程――後に見るように――このことは別に、歴史を自然的な因果律を用いて説明[#「説明」に傍点]しようと企てることではない。却って夫は分析的[#「分析的」に傍点]な従って又当然直観的な方法に従うことを意味するだろう。だがそうかと云って又夫が、例えば厳密な現象学的方法――本質直観――などによることにはならないのだ、とそうヴェーバーは警告する*。
[#ここから2字下げ、折り返して3字下げ]
* Ideen, S. 6―12.
[#ここで字下げ終わり]
 文化は、歴史は、精神的であった。その奥底には本来、文化哲学[#「哲学」に傍点]が、歴史哲学[#「哲学」に傍点]が、内在していなければならない。だがこの精神的なものが、歴史に於て、物体的[#「物体的」に傍点]な形象[#「形象」に傍点]となって現われるということも亦事実である*。歴史的世界の最も深刻な意味[#「意味」に傍点]――それが精神である――は、単に形而上学的・哲学的・に問題となるばかりではなく、現象[#「現象」に傍点]の世界・形態の世界[#「形態の世界」に傍点]・の内にあるものとしても亦、取り上げられることが出来、又そうでなければならない。優れて精神的であった歴史乃至文化は、社会現象の平面にまで引き降ろされる。夫が文化社会学[#「社会学」に傍点]なのである*。――精神は今や、ヴェーバーの文化社会学によって、ヘーゲル風のイデーの高みから、社会的存在の地上にまで、引き降ろされる。
[#ここから2字下げ、折り返して3字下げ]
* Ideen, S. 48.
[#ここで字下げ終わり]
 かくて狭義に於ける精神・文化・歴史は、「社会過程」の床の内に横たえられる。否、社会過程そのものがすでに、人間の自己発動的な自然的衝動力や意欲の力を、社会的な一般形式にまで齎すものに外ならないから、それだけですでに――生物学的なものに対しては――歴史的だとも考えられねばならない。即ち又それ自身すでに――広義に於て――精神的・文化的でなければならないのである。で、一切の歴史内容が凡て、この社会過程[#「社会過程」に傍点]の床の内に横たわると考えられるのは、至極尤もである。――処でそれにも拘らず、この全歴史的過程の内から更に又特に精神的・心的・である処の過程だけを、抽出することが出来るだろう。そこで彼は云っている、吾々の心からは「完全に異った二つの世界」が造り出される、第一は知識的な直観や概念や思考から生じる処の客観的・普遍的・非人格的な世界であり、第二は感情[#「感情」に傍点]を地盤として生じる処の個性的・具体的・人格的な世界である。前者は単なる知能に対応し、之に反して後者は生活全体の歴史的運命を反映する*。ヴェーバーによれば前者は「文明過程」であり、後者が「文化の運動」と名づけられる処のものである。――で吾々は今や三つの範疇を得た、「社会過程」・「文明過程」及び「文化動向」。そして後の二つは、第一の社会過程の床の内に横たわっているわけである。尤もこの三つのものは事実としては決して別々に独立しているのではなく、ただ吾々が観念に於て之を分離して表象出来、又そうする必要がある、と云うまでである。実際文化社会学は、この三つのものを夫々区別することによって、却って初めて三者の間の相関的な交互の動的連関を捉えることを企てる。
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* Ideen, S. 33.
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 さてヴェーバーの文化社会学に於て最も特色のあるものは、その特有な文化概念、従って又文明過程[#「文明過程」に傍点]と文化運動[#「文化運動」に傍点]との厳重な区別、である。
 同じく社会過程の内に横たわりながら、文明過程と文化動向とは、彼に依れば、全く異った展開法則[#「展開法則」に傍点]に従う。二つは夫々に特有な法則性と作用とを示すなら、一定の認識目的の下では二つのものを判然と分離析出することが出来る。文明過程――数学的・自然科学的・及び技術的・知識などが之にぞくするプロパーなものであるが――の運動形態の特色は、文化の動向と異って、合理的[#「合理的」に傍点]・主知的[#「主知的」に傍点]であることを見ねばならぬ。と云うのは、夫は因果的[#「因果的」に傍点]・機械的・な過程として展開し、論理的[#「論理的」に傍点]・普遍妥当的[#「普遍妥当的」に傍点]・必然的[#「必然的」に傍点]な継起を有つ。だからそこでは、展開の夫々の点に就いて、例えば正不正[#「正不正」に傍点]というような論理的価値標準をあて嵌めることも出来る。と云うのは、文明の運動は、その内容の正当ならぬモメントが排除されて正当なモメントだけが残ってゆくように行われると云うのである。文明過程は云わば直接的[#「直接的」に傍点]・積極的[#「積極的」に傍点]な進歩をなす。多くの実証主義者が信じた通り、――コントとスペンサーはヴェーバーの好敵手である――、文明の運動過程は進化[#「進化」に傍点]なのである(所謂進化理論はただこの点にのみ当て篏まる)。こういう運動法則に従う文明の世界には、人間の――物質的――生活の一定の目的に役立つべく存在を変容し形成する処の、技術手段[#「技術手段」に傍点]が与えられている、之は合目的的[#「合目的的」に傍点]・実用的・な領域である。こう云ってヴェーバーは文明を特色づける*。
[#ここから2字下げ、折り返して3字下げ]
* 以上は Prinzipielles, S. 11, 12, 21, 23, 29, 42, ……及び Ideen, S. 3 ……を見よ。
[#ここで字下げ終わり]
 併し精神的・文化的・であるべきであった歴史の過程を、一概にこの文明[#「文明」に傍点]の概念によって律しようとすることは、ヴェーバーによれば進化論者[#「進化論者」に傍点]・実証主義者[#「実証主義者」に傍点]の根本的迷蒙である。それは人間の精神的存在[#「精神的存在」に傍点]の単なる半面をしか知らない者の考えに過ぎない。彼等は文化[#「文化」に傍点]の概念を少しも理解していない。処が文化こそ優れて精神的・歴史的・な精髄でなくてはならなかった。
 文化は文明と異って、非合理的[#「非合理的」に傍点]である、それは知性[#「知性」に傍点]の所産ではなくて全人格[#「全人格」に傍点]の感情[#「感情」に傍点]の所産であった。そこでは生命感[#「生命感」に傍点]が、愛[#「愛」に傍点]が支配する。だからもはやそこには、論理的な・因果的・直線的・積堆的な・進歩も進化もない。文化は夫々の時代の一定の定位[#「定位」に傍点]の範囲を限って、その範囲内で作用を有つことが出来るだけである。文明が時代と共に進歩しても、文化は――哲学体系・宗教・芸術等を考えよ――別に進歩するものではない、ただ夫が異った時代の定位に移って、異った作用を有つようになるという迄である。この意味に於て文化は一遍々々完了[#「完了」に傍点]するものであり、一回的[#「一回的」に傍点]なものである。文化には没落や静止、劇変や改革や復興があるだろう。併し夫には何等の方向[#「方向」に傍点]も目的[#「目的」に傍点]もない。だから文化は、本来[#「本来」に傍点]発見と呼ばれるような働きをする筈がない(発見 Entdecken とは既にあるものを単に顕わにすることに外ならない)。文化は常に創造でなければならぬ、文化は発出[#「発出」に傍点]・エマネーションである。で、こういう謂わば自由な詩的象徴の世界で人々は、文化の発展の段階[#「段階」に傍点]の代りに、高々文化の成功不成功・高低・の時代区別をし得るに過ぎないだろう。尤も一見無規則に見える文化のこの運動にも、一定の週期性[#「週期性」に傍点]とリズム[#「リズム」に傍点]とを見出すことは出来る。吾々は諸文化状態を類型化すことが出来るからである。――文化の世界は普遍妥当的・必然的・な客観界ではない、実際それは文明とは異って、人間の物質生活の目的に役立つような合目的性も実用性も有っていない。それは却って反目的的[#「反目的的」に傍点]でさえあることが出来る。そこでは何の技術手段も提供されない、夫は単に、感情の象徴[#「感情の象徴」に傍点]が夫々異った配列に於て並存している処の世界に過ぎないのだ、とそうヴェーバーは主張する*。
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* 以上は Prinzipielles, S. 22, 25, 28, 29, ……及び Ideen, S. 34, 40, 42, 46, 54, ……を見よ。
[#ここで字下げ終わり]
 もはや読者は気付いただろう、アルフレッド・ヴェーバーによる文化の概念が、夫が文明の概念から区別されることによって、まず第一に、如何に審美的[#「審美的」に傍点]――又ロマン派的[#「ロマン派的」に傍点]――性格を与えられたかを。文化とは外でもない、感情[#「感情」に傍点]による象徴的影像[#「象徴的影像」に傍点]の外ではないのである。それは生物的生命の存続などにとっては過剰物[#「過剰物」に傍点]である、否それだけではない、吾々が生活の全形式を、生活の全根本原則を、そのためには犠牲にしても構わないような、何か高貴的な芸術作品[#「芸術作品」に傍点]の如きものなのである。実際彼によれば、文化の内容には二つの側面しかない、人格が世界を自己の内に取り入れるという側面と、反対に人格が世界形象の統一を構成するという側面と。後者はイデーであり前者が即ち芸術作品[#「芸術作品」に傍点]である。後者は予言者[#「予言者」に傍点]のものであり前者が芸術家[#「芸術家」に傍点]のものである、と彼は考えるのである*。人々は云うまでもなく茲でシェリングの象徴詩的・審美的・――又ロマン派的――な哲学体系を連想しなければならない。処が第二にこのロマン派的理論は、おのずから、そのドイツ風な形而上学的[#「形而上学的」に傍点]・宗教的[#「宗教的」に傍点]・背景を示さずにはおかない。その時文化は、正にかのドイツ民族風の、形而上学的・宗教的な本質を暴露しなければならないのである。そこでヴェーバーは文化を定義して云っている、「吾々の形而上学的存在が有つ統一への意志が、吾々自身の内面的存在の全体性と外界で之に対立している全体性とに向けられる時、この統一への意志が創造するもの、即ち又、人格性と世界との総合を現わすもの、之が文化であり文化的作意である」と**。文化は全体者[#「全体者」に傍点]であり、永遠者[#「永遠者」に傍点]を意欲し、常に新しき絶対者である、夫は全世界の最深の奥義[#「最深の奥義」に傍点]である。処でかかる世界の形而上学的な奥義は、宗教的世界観に於ては、恰も神[#「神」に傍点]と呼ばれるものに相当する。単なる事実的存在の世界からの救済[#「救済」に傍点]こそ、文化の使命である、文化は人類の運命[#「運命」に傍点]なのだ、彼はそうつけ加えることを決して忘れない***。
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* 以上は Ideen, S. 40―42 を見よ。

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