煤u体系」に傍点]であって、抽象的な之あれという真理の断片[#「真理の断片」に傍点]なのではない。二つの社会科学体系が、その対立にも拘らず銘々夫々の科学性――真理性――を自負することが出来るのは、理論に於けるこうした論理の云わば、立体性[#「立体性」に傍点]に基くのである。一定の端初出発さえ与えられればあとは論理の単なる整合をたよりにして、諸考察や実証的諸事実に対する辻褄を合わせて行くことは、或る程度まで至極容易である。問題は併し如何なる端初を採用するかに存するのである。
 社会科学に於て一定の端初を選択させる動機[#「動機」に傍点]は、[#傍点]一定の問題に対する関心[#傍点終わり]である。例えば或る社会科学は社会を問題にすると称しながら、実は社会ではなくて個人の生活[#「個人の生活」に傍点]が内実の切実な問題となっている、そうすれば社会も亦個人の問題からの延長としてしか問題になることが出来ない――個人主義。之に反して社会主義的社会科学は個人の問題ではなくて社会を本当に切実にテーマとする、社会の問題こそこの社会科学の成立の動機をなしている、端初はこの問題[#「問題」に傍点]の内に横たわる。
 同じ問題を取り扱うように見える場合でも併し、問題の提出形態[#「提出形態」に傍点]によって、実は異った問題が発生する。一切の事物は如何なる動機如何なる立場からでも、夫々の形態で一応は問題になることが出来、またならねばならないだろう。で問題が端初を決定するというのは、実は問題提出[#「問題提出」に傍点]の形態が理論の端初を決定するということなのであった。――さてそこで、如何なる問題を如何なる動機から如何なる形態で提出するかが、今云った理論の科学性・論理性の立体的な内容をなす。社会科学の理論を、単に――形式論理的な――整合・前後一貫の関係だけで判定すれば、ブルジョア社会科学であろうとプロレタリア社会科学であろうと、相当なものはどれも斉しく科学性を有つように見えるだろう。銘々は夫々科学的なのである。だが理論を、理論構成の動機に遡って、即ちその端初の選択の仕方によって、即ち又如何なる問題提出をするかを見て、判定するならば、二群の対立する社会科学の科学性・真理性は、もはや論理学的に同格とは云えない。そこではどの問題提出の仕方の方がより正当[#「より正当」に傍点]であるかが問題となるのである。
 だが、どの問題提出の仕方の方がより正当であるかは、外でもない、理論家がどの問題を自分自身[#「自分自身」に傍点]にとっての問題として提出し得またせねばならぬような、社会的[#「社会的」に傍点]・客観的[#「客観的」に傍点]・状勢の下におかれているか、によって決まるわけである。問題提出は全く社会階級の利害[#「社会階級の利害」に傍点]から決定される。――だが階級的利害は階級的主観[#「主観」に傍点]の利害にしか過ぎないから、そう云っただけではこの利害によって決定された問題提出形態の正当さを証明するには足りない。必要なことは、一定の階級の主観的な利害が、他の対立階級の利害とは反対に、歴史的社会の運動法則[#「運動法則」に傍点]の客観的な[#「客観的な」に傍点]物的・論理的・必然性と一致せねばならぬという点である。処が唯物史観が与える公式によれば、プロレタリアこそこうした――その主観的利害が客観的な必然性と一致する――階級なのである。
 そこでこういうことになる。プロレタリア階級はブルジョアジーとは異って、正当な[#「正当な」に傍点]問題提出を端初とすることによって、正当な[#「正当な」に傍点]理論構成を遂行することが出来る。そういうことが出来る[#「出来る」に傍点]ということは併し、全くプロレタリアの歴史的社会的な必然的な位置から来るに外ならない。プロレタリア階級は一般に、ブルジョアジーとは異って、真理の体系に到達出来る[#「出来る」に傍点]客観的な事情の下に置かれている、この階級は真理をより容易に[#「より容易に」に傍点]発見することが出来る。処がブルジョアジーは一般に、真理の体系に到達することが終局に於ては不可能[#「終局に於ては不可能」に傍点]なような客観的事情に立つから、真理を発見することがより困難[#「より困難」に傍点]であり、発見された真理にもおのずから一定の制限[#「一定の制限」に傍点]がなくてはならない。――之を歴史的[#「歴史的」に傍点]に云い表わせば、前者による社会科学はかくて、進歩の可能性[#「進歩の可能性」に傍点]を含み、後者によるそれは行きづまり[#「行きづまり」に傍点]――危機や停滞――の宿命を持っている、と云うことになる。以上が社会科学のイデオロギー性、階級性の一般的な輪郭である。

 どの科学を取って見ても、社会科学に於て程、ブルジョアジーとプロレタリアとの階級対立が、科学的理論の論理的[#「論理的」に傍点]・歴史的[#「歴史的」に傍点]・社会的[#「社会的」に傍点]な対立として、鮮かに反映しているものを吾々は見ない。すでに哲学に於ては、観念論と唯物論とが、夫に従って又形式論理的方法と(唯物)弁証法的とが、階級性の資格に於て対立したが、今はこれが社会科学という特殊科学に相応わしいように具体化・主体化される。
 社会科学――夫は元来マルクス主義に固有なものだと云っても好いが――を広く理解するなら、経済学・政治学・法律学・史学・社会学等々のマルクス主義的乃至ブルジョア的諸科学が夫に含まれるが、そこに問題となる最も一般的な範疇は例えば社会[#「社会」に傍点]の概念と国家[#「国家」に傍点]の概念とだろう。処でこうした諸根本概念が、観念論的に、又はそうではなくて唯物論的に、鮮かに対立した取り扱いを受けるのである。
 マルクス主義――プロレタリア・イデオロギー――によれば、社会や国家は夫々一つの歴史的範疇[#「歴史的範疇」に傍点]である。唯物史観――社会科学に於ける唯物論――によれば是非ともそうあらざるを得ない。処が殆んど凡ての又は多くのブルジョア「社会学」や「国家学」によれば、之等のものは超歴史的に理解されるべき概念となる、社会とは人間の社会生活の諸範型としての不動な社会諸関係[#「社会諸関係」に傍点]となり、国家とは人間の社会生活の永遠な本質形式となる。マルクス主義的社会科学に於ては之等の事物は、歴史的内容から出発して内容主義的[#「内容主義的」に傍点]――唯物論的――に取り扱われねばならぬに反して、ブルジョア社会科学によれば之等のものは全く形式主義的[#「形式主義的」に傍点]に取り扱われる、社会や国家は、恰も数学の対象でもあるかのように、形式的に定義[#「形式的に定義」に傍点]され得るかのようにさえ考えられるのである。
 この内容主義と形式主義との対立は併し、取りも直さず内容的論理[#「内容的論理」に傍点]による方法と形式的論理[#「形式的論理」に傍点]による方法との対立になる、と云うのは弁証法的方法と形式論理的方法との対立に外ならない、そのことはすでに前に見ておいた。――処が形式論理的方法が最も科学的威厳を有つように見える場合は数学に於てであると人々は想像するので(だが実はそうではなかったのだが――前を見よ)、この方法の最も発達した或いは最後の穴にまで追いつめられた形態は、数学的方法[#「数学的方法」に傍点]なのである。そこで例えばブルジョア経済学の最後の穴にまで追い落された形態は、当然にも、所謂数理経済学[#「数理経済学」に傍点]の如きものとならねばならぬ。この経済学形態――之はオーストリー学派・所謂金利生活者の経済学と不離の関係にある――の要点は、客観的な財や主観的な欲望が数量的に測定出来たり、又之に数学的操作が加え得られたり、又方程式で之の諸関係が云い表わされる、と云ったような点よりも寧ろ、経済関係が経済的均衡[#「経済的均衡」に傍点]として把握されているという点にあるのである。社会諸関係の内から経験的乃至偶然的な――例えば戦争・革命・飢饉・震災の影響・等々の政治的意義をもつ――諸項を捨象し去って、「本質的」な可能性の上での経済的諸関係だけを取り出せば、それは恐らく経済的均衡の外にはないだろう。
 経済関係のマルクス主義的・唯物史観的・方法によれば、政治現象は経済的地盤によって終局的に決定されているわけであるから、政治現象は一定の限界に於て、その本質に従っては経済学的に予言され得る筈であった。即ち経済現象はそれだけ政治学的に予言出来るわけである、そうした政治学的予言を含むことが出来るというのが、マルクス主義経済学――弁証法的経済学――が実際に具体的現実に役に立ちつつある主な理由である。処が数理経済学の立場は、こうした弁証法というような非数学的・文学的・な方法の代りに、数学的に精密な[#「精密な」に傍点]併し数学的に抽象的な、従って夫だけでは経済現象の具体的運動の説明に就いては本質的に何の役にも立たない方法を、置き代えようとするのである。――この立場・方法によれば経済現象に於ける歴史的原理[#「歴史的原理」に傍点]は全く捨象し去られている。だから歴史的事実[#「歴史的事実」に傍点]は、今の処全く経験論的な統計的方法に立っている処の景気変動論[#「景気変動論」に傍点]というようなものに一任される外はない。そして而も、形式的な数理的[#「数理的」に傍点]方法と、経験的な統計的[#「統計的」に傍点]方法とが、一体どうやって結び付けるかは抑々問題であろう。
 数理経済学は、その方法から特色づければ、社会学的均衡理論――之は数理経済学と共にパレートが得意とした処である――の一部分に相当する。この均衡理論が社会を如何に機械論的[#「機械論的」に傍点]に取り扱うか、従って如何にそれだけ非弁証法的・形式論理的に夫を取り扱わねばならぬかさえ見れば、ブルジョア経済学[#「ブルジョア経済学」に傍点]のこの精鋭が何であるかが判る。――之は唯物史観(歴史的唯物論)に対立する・弁証法に対立する、観念論の形式主義の・最も近代的な適用物に外ならない。
 社会や又国家がこうした対立する二つの問題提出の形態[#「問題提出の形態」に傍点]によって、階級的に把握し分けられるばかりではなく、マルクス主義的社会科学とブルジョア社会科学とでは、抑々発端の問題それ自身をさえ別にしていると云って好い。と云うのは、前者の理論が社会[#「社会」に傍点]を問題にして出発するに反して、後者は実は社会ではなくて個人[#「個人」に傍点]の問題を出発点とするのである。だから前者は社会を社会的存在として、即ち客観主義[#「客観主義」に傍点]的見地から取り上げるに反して、後者は社会を結局個人に帰着せしめることによって、即ち主観主義[#「主観主義」に傍点]的見地から、取り上げる。例えば前者によれば経済社会は商品の集積[#「商品の集積」に傍点]として規定し始められるが、後者によれば夫は人間性[#「人間性」に傍点]や欲望[#「欲望」に傍点]から規定し起こされる。――後者は個人主義[#「個人主義」に傍点]的社会科学であり、前者は之に反して社会主義[#「社会主義」に傍点]的社会科学である。そしてこの区別は外でもない、観念論と唯物論との哲学イデオロギー上の対立に対応するのであった。なぜなら吾々は、観念論の問題が結局個人[#「個人」に傍点]の――意識の――問題である所以を初めに指摘しておいたのだから。
 今マルクス主義社会科学が社会主義的だと云った通り、この社会科学は自分のイデオロギー性=階級性を最も能く自覚[#「自覚」に傍点]していることをその特色とする(ブルジョア社会科学は併し、之を自覚乃至告白することを決して肯んじないのである)。而も之は単にその理論家の主観的な意識に於て自覚されていると云うだけではなくて、理論それ自身の内に之がその規定となって織り出されているのである。マルクス主義社会科学は特に――一般にマルクス主義はそうなのだが――その階級性=イデオロギー性を著しくする。最初に述べ
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