驍ゥら合目的的に運動することは間違いないが、その運動には何の偶然性もあり得ないから、その目的論は静的なものにしか過ぎない。生物に固有なものは之に反して動的目的論[#「動的目的論」に傍点]である、とそう彼は主張する。
だから生物には機械的な因果の系列の外に、之と並んで、エンテレヒー(Entelechie)と名づけられる運動の決定要因がなければならず、生物はこの要因によって、他のものから区別された固有法則[#「固有法則」に傍点]を持つ処の自律性[#「自律性」に傍点]を示すのである。生命の固有法則性(Eigengesetzlichkeit)とは之である。
だが生命のこの新生気論的説明は、真の機械的説明とは少しも矛盾しない、とドリーシュは主張する。何故ならエンテレヒーなる要因は物質でもエネルギーでもなく、又物質やエネルギーを生ぜしめたり消滅せしめたりするような物理的・化学的な外延量[#「外延量」に傍点]でもない、からである。エンテレヒーはただ、物質乃至エネルギーの可能的な諸転換[#「可能的な諸転換」に傍点]の内から、特に或る転換だけを現実[#「現実」に傍点]すべく、合目的的に選択し得る嚮導原理[#「嚮導原理」に傍点]の外ではない。夫は何も別に新しい作用を及ぼすのではなくて、ただ与えられた諸可能態の内の一つを除く凡てを、単に抑圧・制止するだけなのである。――だからエンテレヒーの仮定は自然の機械的因果律を少しも破るものではない。この因果律を少しでも破って好いと考えたのは旧生気説[#「旧生気説」に傍点]であり、そしてそこにこそ初めてこの生気説の困難があったのだが、ドリーシュの新生気説によればこの困難は避けられる、というのである。
吾々は目的論一般に就いて分析している暇を持たないが、カントの目的論が自然の因果とは[#傍点]全く段階を異にした領域[#傍点終わり]の原理であったとは異って、ドリーシュのエンテレヒーは、この機械的因果と[#傍点]同列に並ぶ処の自然要因[#傍点終わり]の一つであったことを注意せねばならぬ。だから如何にそれが積極的な作用力を持たずに単に消極的な制止と抑圧との嚮導原理に過ぎないと云っても、その制止乃至抑圧は消極的ではあっても実際にはそうした制止とか抑圧とかいう一種の――積極的な――作用力でなくてはならぬ。之は物理的・化学的作用と干渉し合わざるを得ない。でそうすれば新生気説と雖も、この形態の下では矢張り一種の――精妙な――旧生気説にしか過ぎないだろう。だからドリーシュの新生気説は生気説と機械論とのかの二律背反を解くことは出来ない。ドリーシュの可なりに精緻なその生気説乃至目的論が、あまり科学的信用を博さないのは、恐らくこの幻滅に由来しているのではないだろうか。
問題の困難は併しながら機械論的因果律[#「機械論的因果律」に傍点]の概念自身の内に横たわっている。と云うのは、機械論者によっても新旧生気論者によっても、因果律は機械論的[#「機械論的」に傍点]にしか把握されておらず、そう把握した因果律を仮定して問題が堂々巡りをしていたのである。処が、すでに所謂「近代物理学」に於て見たように、元来因果律そのものが機械論的に理解されることはもはや今日では許されなくなっているのである。機械論的に把握された必然性[#「必然性」に傍点]に対する同じく機械論的に把握された偶然性[#「偶然性」に傍点]、そういう偶然性の概念を固執する限り、如何なる目的論――生気説――も機械論の困難を救うことの出来ないのは当然である。――因果は弁証法的[#「弁証法的」に傍点]に理解されねばならなかった、従って又偶然性・目的論・生気説も、弁証法的に理解されるのでなければならぬ。
そこで弁証法的方法によれば、無機的物質と生命との間には連続的[#「連続的」に傍点]な推移があるにも拘らず、段階的な質的相違[#「段階的な質的相違」に傍点]が横たわることが見のがされない。生命現象は一種の物質現象であり、従って物質現象に行われる諸法則――物理的・化学的・法則――が無論之を支配しなければならないが、そうであるからと云って、この種の法則だけ[#「だけ」に傍点]で生命現象が説明されるとしたら、それは全く機械的な公式的な願望でしかあるまい。生命には生命に固有な質的特色を有った法則――それが生気説によって目的論とか何とか呼ばれた――がなくてはならない。一応こう考えれば、所謂機械論と所謂生気説とのかの二律背反は解ける筈である。
だが、自然に、単なる物質現象と生命現象という、諸段階があるということに注意することは、まだそれだけでは弁証法的思惟にはならない。必要なものは、何故自然にそうした段階が存在するかの説明である。そしてこの説明を与えるものこそ(唯物)弁証法に外ならない。自然とは自然史的発展の結果[#「自然史的発展の結果」に傍点]である。生命はそうした結果の一つの外ではない。だから生命現象はその内部規定として、自然が生命にまで発展して来た自然史的過程を、そのモメントとして持っている。物理的化学的構造はそうしたモメントの一つだったのである。生命現象の有つ固有法則性は、生命に至るまでの自然の時間的蓄積に相当する。この歴史的経歴を抜きにして、直接に単なる物理的・化学的原理だけ[#「だけ」に傍点]で説明しようとしても、それが無理だということは、だから極めて当然ではないか。――でこう云う意味で、生命は、少くとも機械論的にでなく、又機械論的な生気説によってでなく、正に弁証法によって把握される外に道を残さない。新物理学の進歩と並行するためにも、生物学はこの途を取らざるを得ないのである。
自然史的発展のこの弁証法的な理解は、種の起源[#「種の起源」に傍点]に就いて云えば取りも直さず進化論[#「進化論」に傍点]の思想となって現われる。反対に云えば、進化論の本質――それは自然史の弁証法的認識である――は当然に、生命のこうした弁証法的な理解にまで導く筈だったのである。――吾々は物理学に於ける不決定論[#「不決定論」に傍点]の問題と、生命に関する生気説[#「生気説」に傍点]の問題と、更に種の起源に関する進化論[#「進化論」に傍点]の問題とが、期せずして、(唯物)弁証法というイデオロギー性格によって、一貫して連絡を与えられたことを、注意しなければならない*。
[#ここから2字下げ、折り返して3字下げ]
* 以上の点に就いては拙稿「生物学論」(岩波講座『生物学』【本全集第三巻所収】に多少詳しい。
[#ここで字下げ終わり]
生物学のイデオロギー性は併し、数学や物理学の場合に較べて、より広範な作用を有っている。外でもない、生命はやがて社会にまで自然史的発展を有つべきものなので、ここでは社会との接触が甚だ屡々問題とならねばならないからである。例えば人々は生物学に於ける専門的知識を利用して社会問題や人生の問題を解こうと試みる。すでに進化論は、そうした社会認識の方法としても亦、一つの有力なイデオロギー・「思想」であった。このことは進化論がアメリカの教会あたりから敵視されているとか、又わが国では却って生物学者にキリスト教徒が多いとかいう、極めて卑近な例から知り得るばかりではなく、進化論がマルクス主義的唯物史観――コンミュニズム――と連帯関係にあることを注意すれば、もっと明らかに判るだろう。クロポトキンも亦生物学的認識から出発する。古典的社会学がその生物主義によって促進されたのも事実だろう。遺伝学――獲得質遺伝の問題――とか優生学とかは、極めて強い政治的・社会的な特徴を有っている。自然科学の内で最も露骨にイデオロギー性――階級性――を有つものは生物学なのである。
この点から必然的に出て来ることであるが、生物学は数学や物理学に較べて、著しくジャーナリスティックな性質を表わすことが出来る。だから又、そこではアカデミズムとの対立が屡々重大な関心事をなすのである。G・フロイトの精神分析学――フロイト主義――は、生物学が、医学や心理学との連関に於て、云い表わされたものに外ならないが、之は今ではジャーナリズムを支配する一つのイデオロギー・思想であって、文学者達さえが之を好んで口にすることを忘れない。処が固陋な或いは慎重なアカデミズムの上では、フロイト主義は必ずしも科学的信用[#「信用」に傍点]を有っているとは限らないように見受けられる。吾々はこの一例に於ても生物学イデオロギーに於ける、ジャーナリズムとアカデミズムとの対立を見ることが出来るのである。そして大切なことは、こうした科学は、単にアカデミズムを通してばかりではなく、又ジャーナリズムをも通して、恐らく初めて科学的発展[#「科学的発展」に傍点]を有つことが出来るだろうという点である。
[#3字下げ]三[#「三」は小見出し]
最後に吾々は社会科学[#「社会科学」に傍点]のイデオロギーに就いて語らねばならぬ。蓋し科学に於けるイデオロギー性――階級性――が最も顕著に現われるのは、恰も社会科学に於てであるのだから。
社会科学に於けるイデオロギー性・階級性の特色は、それがブルジョア社会科学[#「ブルジョア社会科学」に傍点]とプロレタリア社会科学[#「プロレタリア社会科学」に傍点]という、異った二つの体系[#「異った二つの体系」に傍点]として対立するという現象の内に見られる。人々の単純な考え方に従えば、科学はどんな科学でも真理の体系でなければならず、そして真理はプロレタリアにとってもブルジョアジーにとっても斉しく真理であればこそ、初めて真理であることが出来るのだから、苟しくも科学としての科学にそうした階級的対立などがあろう筈がない、と考えられるだろう。なる程一応尤もではあるが、実際は、殆んど全く異った――併し無論共通の点がないのではない――二つの科学体系が現に存在し、而もその銘々が発達すればする程、互いに歩み寄る処ではなく却って益々その対立を深めて行くというのが事実である。だからこの対立は、この二つの科学がまだ充分に発達しないために銘々事物の異った夫々の側面をしか解明出来ないので両者の連絡が断たれている、というようなことを意味するのではない。ブルジョア社会科学はブルジョア社会科学なりに、プロレタリア社会科学はプロレタリア社会科学なりに、吾々の時代は他の諸科学に較べて決して発達の後れてはいない筈の、社会科学を持っている。それにも拘らず、そこには階級的対立が愈々著しい。
その社会学的原因[#「社会学的原因」に傍点]は云うまでもなく、社会科学が言葉通り社会の科学であり、従って他の諸科学に比較して、社会階級[#「社会階級」に傍点]に対する関係が異質的に濃いということの内に横たわる。社会科学の理論[#「理論」に傍点]は、ブルジョア社会科学者が何と云おうと、一定の社会的実践[#「社会的実践」に傍点]と直接に結び付いている。社会科学は科学である以上無論公平無私な態度と純粋な――主観的情意から純粋な――理論構成とに従わなければならないが、それは何もこの理論が実践から独立に無関係になるということを意味しない。もしそういうことが必要ならば、所謂政策[#「政策」に傍点]的諸科学は決して科学性を有つことは出来ないだろう。
二群のこの対立する社会科学は、そこで、事実上は――意識するとしないとに拘らず――常に夫々のプロレタリア的な又はブルジョア的な社会的実践意識・即ち階級的利害[#「階級的利害」に傍点]によって、成り立っている。一方の階級と利害を共にしているものは、その階級のイデオロギーによってそれに相当した社会科学を構成する、之れによればその階級の利害が――意識するとしないとに拘らず――常に擁護されるのは至極当然だろう。で、こうして真理[#「真理」に傍点]は、社会科学に於ては二つに分裂するように見える。だが真理は無論唯一の標準をしか有たない筈だろう。そうすれば一体この真理の分裂現象は、論理学的[#「論理学的」に傍点]にどう説明されるか。
併し科学的理論は云うまでもなく理論の体系[
前へ
次へ
全38ページ中15ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
戸坂 潤 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング