スとは考えられないだろう。処が因果律に就いては、もはや問題は単に物理学に限られることは出来ない、すでにカントは因果の関係を先天的な範疇に依って哲学的に演繹して見せたし、それより前には哲学者ヒュームがそれの論理的通用性を拒んだと考えられるので名高い。――で物理学者は今や、この問題をめぐって二群の哲学者[#「哲学者」に傍点]として対立する。決定論者[#「決定論者」に傍点]と不決定論者[#「不決定論者」に傍点]。と云うのは因果律の固執者と放擲者とである。そして注意しなければならないが、多くの物理学者が暗々裏に意識している処に従えば、決定論は唯物論に帰着し、不決定論は観念論を結果する、というのである。蓋し不決定論は、因果的必然性の外に、偶然性[#「偶然性」に傍点]を許すことだが、一旦之を許せば、自然界の内にも自由[#「自由」に傍点]・自由意志[#「自由意志」に傍点]を許すこととなり、それはやがて、所謂精神主義へ、又神秘思想へ、導く処のものだろうからである。
 不決定論の根拠はハイゼンベルクの不決定性の原理[#「不決定性の原理」に傍点]に基いて理解される。之に従えば、大量観察の際はとに角として、微細な現象の個々の場合に就いては、原理的に云って因果的必然性に充分の信頼を置くことが出来ない、そこでは一定の限界から先、全くの偶然性が支配しなければならぬ、と云うのである。例えば自由電子の空間的位置[#「位置」に傍点]を充分に精密に決定――測定――するためには、之に一定度以上の光を与えなければならない、が電子のような微細な物質に光をあてることは電子の運動量[#「運動量」に傍点]乃至速度[#「速度」に傍点]に変化を与えることになる。従ってそれだけこの電子の運動量乃至速度の測定は不精密にならざるを得ない。逆に之等を充分に精密に測定し得るためには空間的位置の測定はそれだけ不精密であらざるを得ないだろう。物理学的対象が持つ二つの量を同時に[#「同時に」に傍点]測定する場合、常に一方の量の測定の精度を犠牲にしなければ他方の精度を得ることが出来ない。
 この関係は物理学的測定それ自身が一つの物理的作用[#「作用」に傍点]であり、従って測定は測定装置と測定されるものとの客観的な交互作用だということに由来する。物理的作用は量子論によれば一定の単位である作用量子[#「作用量子」に傍点](Wirkungsquantum)h[#「h」は斜体]の倍数を以てしか作用し得ないから。このダイメンションに相当する範囲に於て、本来測定は不精密であらざるを得ないのである。で交互作用をなす一対である二つの量p[#「p」は斜体]・q[#「q」は斜体]の同時測定の際に於ける夫々の精度乃至不精度[#横組み]Δp[#「p」は斜体]・Δq[#「q」は斜体][#横組み終わり]は、[#横組み]Δp[#「p」は斜体]・Δq[#「q」は斜体]〜h[#「h」は斜体][#横組み終わり](〜はダイメンションの同一を意味する)の関係によって与えられる。――之が不決定性の原理である。
 こうした不精密さは併し、因果律の適用をおのずからそれだけ不精密にする。自由電子の位置が充分に精密に測定され得てもその運動状態がそれだけ不精密にしか測定され得ないから、次の瞬間この電子の状態は精密には決定出来ない。処が一切の個々の事物が一切の個々の瞬間に就いて、完全に精密に決定されているということが、因果律の要請ではなかったか。ここにはだから偶然性[#「偶然性」に傍点]が支配する、電子の位置の如きは、一つの可能性[#「可能性」に傍点]・蓋然性[#「蓋然性」に傍点]にすぎない。電子の存在は、電子の存在の蓋然性に外ならない、とも云われている。
 この測定に於ける不精密さは併し、決して測定という主観的な研究方法[#「主観的な研究方法」に傍点]によって初めて引き起こされたものではない。量子論で云うように物理学的対象――存在――そのものが量子的であったが故に測定作用も亦量子的であらざるを得なかった迄である。問題は一対の物理学的量の客観的な交互作用の内に横たわる。だから不決定性の原理は人々が往々想像するだろうような認識主観の限界[#「認識主観の限界」に傍点]を意味するのではない。でここに出て来る偶然性は、認識主観から由来するのではなくて客観的な存在そのもの[#「存在そのもの」に傍点]にぞくしているのである、今この点を忘れてはならない。従って、存在そのものは因果的に決定されているが、偶々之を認識する場合に、認識主観がもつ制限の故に充分に因果律を適用出来ないのだ、という解釈は許されない。所謂因果律は物理学的対象それ自身に於てもはや行われないのだ、というのが不決定論者の本当の――最も徹底した――主張であるべきなのである。
 ハイゼンベルクやシュレーディンガーの不決定論に対して、M・プランクは依然として決定論を支持する。プランクはこう主張する、なる程感性の世界に於ては事件の予見はいつも一定の不精確さを脱することは出来ないが、物理学的世界像に於ては一切の事件が一定の与えられた法則に従って因果的に厳密に決定されている、で所謂不決定性は感性界の事件を物理的世界像へ移行する際の不精確に帰着するのだ、と。その実在論的傾向にも拘らずカントを通して或る意味のマッハ主義者に止まっているプランク――但しマッハは彼の有名な論敵ではあるが――は、かくてかの不決定性を結局単に人間の主観性(擬人化)に帰着せしめる。之は前に述べた処に従えば、不決定論者に対する充分な解答ではあり得ない。だから彼はその固持しようとする因果律を高々一種の発見的原理[#「発見的原理」に傍点]に過ぎないものにまで譲歩させる。因果律は彼によれば真理でも嘘でもないのである*。
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* M. Planck, Der Kausalbegriff in der Physik, 1932, S. 11, 26.
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 さて、決定論も不決定論も、因果乃至必然性の概念を機械論的[#「機械論的」に傍点]にしか理解していない、そして之を固持したり排斥したりしようとするのである。決定論とは機械論的[#「機械論的」に傍点]決定論であり、不決定論はこの機械論的決定論の否定でしかない。――と云うのは、両者は、一旦バラバラに他から切り離されて孤立した個々[#「孤立した個々」に傍点]の事象、を仮定しているのであって、決定論が之を機械的な因果必然性によって機械的に結び付けることが出来ると主張するに反して、不決定論はかかる機械的結合を拒もうとするのである。いずれの場合にも、必然性[#「必然性」に傍点]――因果――と偶然性[#「偶然性」に傍点]とが機械的に、動かすべからざる固定的な区画によって、対立せしめられている。
 だが実際には、他から孤立した、その意味に於て絶体固定化された個々の事象などはないのであって、如何なる個々の事象であっても常に他の事象との連関――交互作用や対立――に於てしか存在せず、又そういう連関に於てしか把握されない。その意味に於ては一つ一つの個々事象というようなものは実はないのである。量子論が一切の事象を大量現象として見なければならなかったのは、だから当然なことなのであった。それ故こうした個々事象を結合するような機械的な必然性[#「機械的な必然性」に傍点]――決定性――は実はどこにもあり得ない。
 本当の必然性は、それ自身偶然性との弁証法的な統一の下に、初めて必然性であることが出来る。存在は単純に必然的であったり、単純に偶然的であったりするのではない、必然性と偶然性との節度ある結合の下に置かれているのである。――存在は本質[#「本質」に傍点]と現象形態[#「現象形態」に傍点]とを以て初めて存在する、本質は現象形態を縫って、現象形態を通じて、自らを一貫する。処でこの本質は存在に於ける必然的なるものであり、之に反して現象はこの[#傍点]必然的なるものの偶然的なるもの[#傍点終わり]の外ではない。こうして正当に理解されたものが必然性の弁証法的概念である。ここでは因果の概念も亦弁証法的に理解されねばならぬ。決定論はここでは機械的決定論ではなくて正に弁証法的決定論[#「弁証法的決定論」に傍点]でなければならぬ。
 こう考えて来ると、この弁証法的決定論がかの所謂「決定論」――機械的決定論――と不決定論との和解すべからざる矛盾を解くものとして現われることは、すでに明らかだろう。――困難を解くものは、要するにここでも亦弁証法でなければならないことが判る。
 現代物理学はその問題の客観的な進歩にも拘らず、ブルジョア哲学の諸範疇――機械論・又形而上学――を棄てることが出来ないばかりに、その根本概念――因果的必然性――を困難に陥れて了っている、それを救うものは今やマルクス主義哲学の諸範疇――弁証法――の外にはないだろう。吾々はそういう結論に到着する。――でここまで来れば、物理学に於けるイデオロギー性の内容は、もはや疑う余地があるまい*。
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* 以上の点に就いての多少細かい説明を拙稿「自然科学とイデオロギー」(『知識社会学』――同文館)【本全集第三巻所収】で与えた。
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 物理学に於ける決定論と不決定論との対立に比較すべきものは、生物学[#「生物学」に傍点]に於ける「機械論」と「生気説」との対立である。――前者における無機的物質現象の代りに、ここでは生命[#「生命」に傍点]の現象を置き替えれば好い。そうすれば不決定論はやがて生気説に相当するものになるのである。なお機械論は両者を通じて殆んど同一のものだと見て好い。
 素朴な生気説は機械的必然性の外に、之と独立な、又は之を或る程度だけ犯すことを許される、独自の力――生命力[#「生命力」に傍点]――を仮定する。この仮定は併しながら、丁度物理学に於ける不決定論による偶然性や自由の導入の場合に人々が想像したと同じに、物理的化学的認識の統一――それは機械論的因果必然性によって完全に支配されねばならないと従来考えられて来た――を破壊することをしか意味しない。生命力は、因果関係の外に、恰も之と逆行する処の目的論[#「目的論」に傍点]を導き入れる。目的論も丁度吾々の意識的行為がそうであるように、因果律を用いるのではあるが、結果を予見することによって初めて原因を選択するのであるから、因果そのものの逆行でしかない。(機械的)因果と目的論とは絶体的に対立する。処がそれが、生気説によれば同時に[#「同時に」に傍点]生命現象の説明原理でなければならないのである。
 だが機械論者の云うように、生命現象であっても一つの自然現象である以上、物理的化学的説明を与え得なければならないと云うのも尤もであるし、又之に反して生気論者が主張するように、生命現象は到底単なる物理的化学的現象に還元出来そうにもないというのも亦事実のように見える。二つの主張はそこで何とか調停されなければならない。
 新生気説[#「新生気説」に傍点]はこの調停を目指して現われる。H・ドリーシュによれば、生物即ち有機体が他の無機体と異る点は、それが因果系列の上で・構造の上で・又機能の上で、調和性[#「調和性」に傍点]を有ち、且つ調整の能力[#「調整の能力」に傍点]を持っているということにある。こうしたものは所謂目的論[#「目的論」に傍点]に外ならないが、目的論にも彼によれば二つのものを区別しなければならない。第一は、事物の時間上の発展の予定された可能的運命と実現する現実の運命とが一致している場合で、静的[#「静的」に傍点]目的論であり、第二は之に反して、この可能的運命が現実的運命と一つではなく、前者の諸可能性の内からどれか一つの可能性だけが一種の偶然性[#「偶然性」に傍点]を以て選択されて実現される場合である。之が本当の――動的な[#「動的な」に傍点]――目的論だと考えられる。機械のようなものは一定の目的の下に構成されてい
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