驕Bだが論理になるとそうは行かない、独立な二つの論理などは許されようがないのである。かくて世界観や夫によって歴史的に決定される存在論は、最後に一定形式の論理学にまで歴史的に決定されるに至って、初めて逆にその論理的な是非を溯源して判定されることになる。歴史的社会的秩序としては世界観―存在論―論理学の順序であったが、論理的秩序としてはこの逆の順序が導き出される。――かくして初めて哲学というイデオロギーの階級性[#「階級性」に傍点]が明らかにされる*。
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* 以上の細かい点に就いては拙稿「イデオロギーとしての哲学」(『イデオロギー論』――理想社版の内)【本全集第三巻所収】を見よ。
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哲学に関する「イデオロギーの論理学」は大体こうだとして、吾々は之を「イデオロギーの社会学」にまで結び付ける約束であった。
哲学イデオロギーに於けるアカデミズム――講壇哲学――は、凡ての資本主義国に於て殆んど例外なくブルジョア哲学の群に這入ることを思い出そう。そうすればプロレタリア哲学――マルクス主義哲学――はおのずから、そういう国々に於ては、ジャーナリズム哲学としてしか発生しないし又生存出来ない。処がジャーナリズム哲学と雖もアカデミーのブルジョア哲学の評論化・通俗化・俗流化に過ぎない場合が少なくない。だから今日のプロレタリア哲学――唯物弁証法の哲学――は、一方に於てアカデミズムのブルジョア哲学に対抗するばかりではなく、他方ブルジョア・ジャーナリズム哲学(例えばファッショ哲学や国粋哲学)にも対抗しなければならない。即ち今日多くの国のプロレタリア哲学は、後者の場合に於てはプロレタリア・ジャーナリズム哲学を、前者の場合に於てはプロレタリア・アカデミズム哲学を、その目標として進まねばならぬ状態に置かれているのである。
資本主義国に於ける哲学イデオロギーは、凡てのイデオロギーがそうであるように、ジャーナリズムとアカデミズムとの収拾すべからざる分裂に陥っている。そこでアカデミズム諸哲学は自分に対する大衆の意識的なジャーナリスティックな批判によって迅速に規則的に整理される機会が殆んど全く無いから、いつもありと凡ゆる諸説の紛糾に煩わされざるを得ない。アカデミズムの哲学はそのアカデミー的研究機構によって勢力的に進歩するのではなくて、却って固陋な意識による回り道と繰り返しと重複とを通して、エネルギーを無統制に浪費せざるを得ない。同様に又ブルジョア・ジャーナリズム哲学はアカデミズムの基本的な訓練を[#「訓練を」は底本では「馴練を」]獲得する機会を有たないので、永久にその俗流性を脱することが出来ないから、諸説が切り合う整理点に到着することが出来ない。こうやってブルジョア哲学は、無意味な見渡し難い程の雑多な対立を引き起こす。このことは併しブルジョア哲学者が信じるような豊富な個性や独創を意味するのではない、全くその反対なのである。
ソヴェート連邦に於ける哲学は、イデオロギー一般のジャーナリズム的契機とアカデミズム的契機との有機的連関の故に、ただ一つのマルクス主義哲学――唯物弁証法の哲学――がアカデミカルでありながら而もそれの大衆化[#「大衆化」に傍点]――それが本当のジャーナリズムだ――を見失うことなく、追究され得る与件を持っている。恐らくこうした形の研究に於てこそ、個性や独創も組織的に活用され得るだろう*。
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* 拙稿「ソヴェート連邦の哲学」(『新ロシヤ』第三号)【本全集第三巻所収】参照。――なおその国に於けるアカデミズムとジャーナリズムとの積極的な結合は、ソヴェート連邦の新聞の諸機能を見ると判る。そこではニュースとテキストとが積極的に結合されているのが特色である。
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[#3字下げ]二[#「二」は小見出し]
数学に於けるイデオロギーに就いて。――数学は最も抽象的な科学だと考えられる、というのは、夫が第一に存在から最も離れており、従って又歴史的社会的制約を蒙ることが一等少ないと考えられる。多くの人々にとっては例えば数学の階級性などはあり得ない。7に5を加えれば12[#「12」は縦中横]になるという関係は、プロレタリアにとってもブルジョアに取っても変らない真理だ、と人々は云うのである。で数学自身には――数学の応用や歴史はどうか知らないが――イデオロギーなどはあり得ない、と人々は考える。
それは一応そうである、ここかしこに無限に見出される数学の部分々々に就いては確かにそうである。だが、それで凡ての関係が竭くされるのではない。――数学に於ける根本概念=範疇は云うまでもなく他の諸科学の範疇と連帯関係になくてはなるまい、就中哲学的諸範疇と一定の共軛関係に立つのでなければ事実数学的認識は根本的には成り立たない。数学の基礎・背後にはいつも哲学があるのである。
P・デュ・ボア・レモンは数学者を有限論者と無限論者との二陣営の哲学者に分類したが、有限無限の問題は、そして之と直接に結び付いて連続不連続の問題は、古来数学の根本概念=範疇そのものに関係した問題であった。ところが有限無限・連続不連続とは、外でもない存在[#「存在」に傍点]の[#「外でもない存在[#「存在」に傍点]の」は底本では「外でもない存[#「い存」に傍点]在の」]形式的規定そのものではないか。ここで取り上げられるものは云わば形式的な存在の理論――存在論[#「存在論」に傍点]――なのである。ここでは数学的範疇はもはや単に数学のものではなくて哲学のものとなる。
古代に於ける無限主義・連続主義はアナクサゴラスによって、又有限主義・不連続主義はデモクリトスによって代表されたと云われるが、近世数学に於ける無限主義・連続主義はライプニツ又はニュートンの微分[#「微分」に傍点]の概念によって確立されたと云って好い。微分の概念が有つ哲学的意味を近代に至って普遍的に指摘したのはコーエン一派のマルブルク学派であった。之に反して同じく近代に於て、有限主義・不連続主義の立場に立ちながらこの無限や連続を捉えようとしたのは、デーデキントとG・カントルとによる要素[#「要素」に傍点](Element)の概念である。集合論はこの要素の概念から出発するのである。
有限主義・不連続主義の系統は、B・ラッセルやクテュラの手を通って、ヒルベルトの公理主義[#「公理主義」に傍点]乃至数学的形式主義[#「数学的形式主義」に傍点]に到着し、無限主義・連続主義の系統はブローエルの直観主義[#「直観主義」に傍点]に到着する。元来無限乃至連続の問題は「集合論の二律背反」とか「無限者の逆説」とか呼ばれている困難を持っているのであり、そしてこれ等の二律背反乃至逆説は数学的[#「数学的」に傍点]「存在」の概念[#「の概念」に傍点]に連関して生じて来るものであったが、形式主義は有限不連続な固定的なこの数学的存在――要素・数其他――から、一切の論理的・概念表現的・意味内容を捨象して、この存在を単なる記号[#「記号」に傍点]にして了うことによって、今云った論理的[#「論理的」に傍点]困難を脱しようと企てる。之に反して直観主義は、数学的存在の論理的[#「論理的」に傍点]な概念が仮定する固定的存在[#「固定的存在」に傍点]の思想を斥けて、数学的根本直観[#「根本直観」に傍点]によって数を自由な生成[#「自由な生成」に傍点]として把捉し、そうやってかの論理的[#「論理的」に傍点]困難を解こうと試みる。だがその結果、直観主義は、形式論理の法則を悉くは承認出来なくなる、排中律の如きは破棄されねばならなくなるのである。
エレア主義[#「エレア主義」に傍点]とヘラクレイトス主義[#「ヘラクレイトス主義」に傍点]とにまで還元出来るだろう数学に於けるこの二つの世界観[#「世界観」に傍点]乃至存在論[#「存在論」に傍点]は、だから実は直ちに論理学上[#「論理学上」に傍点]の対立を意味している。形式論理学は、その一切の論理的意味内容を棄て去ることによって辛うじて形式論理学に踏み止まるか(形式主義――論理計算)、それでなければ形式論理学的法則の一部を棄て去らねばならぬ(直観主義)。数学は形式論理をあくまで固執するか、それでなければ先々のあてもなくこの形式論理の一部分を棄てねばならない。数学は云わば論理学的危機[#「論理学的危機」に傍点]に立っているのである。
この危機は併し元来例の二律背反乃至逆説の処理の仕方から結果したものに他ならなかった。この二律背反乃至逆説の論理的意味を検討し直すことによって、この危機を切り抜ける方針は見出されるべきだ。――処で二律背反なるものは、論理が論理以外のものを取り入れようとする関係を論理自身の側から名づけたものに外ならない。と云うのは、それは外でもない、弁証法[#「弁証法」に傍点]を形式論理の側から局部的に名づけたものなのである(だからカントに於ても二律背反はその「弁証法」にぞくしている)。弁証法の本質は形式論理の側から見ると単なる矛盾[#「矛盾」に傍点]としか写らないが、二律背反とは遂に解くべからざる一種の矛盾ではなかったか。
文学的反省に於て逆説やアイロニーが弁証法的本質として一般的に捉えられていないのを常とするように、今の数学的認識に於ても、この二律背反が充分に弁証法的なものとして自覚されていなかった。そこから、かの数学の危機が発生して来たのである。数学の危機を解くには、少くとも、数学の認識に於ける形式論理学の仮定をすてて、弁証法的論理学を採用すれば好いだろう。実際、弁証法とは形式的に云えばエレア主義とヘラクレイトス主義との弁証法的な統一なのである。
(形式論理に対する懐疑を有つ点では直観主義は一応形式主義に優っている。だが、数学的存在を主観的な[#「主観的な」に傍点]「直観」によって規定しようとした点では、直観主義は、云わば客観的[#「客観的」に傍点]な存在のモデルにも相当するだろう符号――シンボル――を数学的存在だと考える形式主義に、遠く及ばないもののようである。)
さてここまで突きつめて来ると、数学的範疇――数学的世界観・存在論・論理――のイデオロギー性は明らかだろう。弁証法的論理学を(そして夫は唯物弁証法のことでなければならない筈であった――前を見よ)、採用するかしないかは、数学の歴史的前進にとって致命的な問題なのである。処が弁証法(唯物弁証法)的論理は、正にマルクス主義的論理学であった。之を採用するかしないかは、だから単に数学の歴史的前進だけの、又数学だけの、問題なのではない、夫は一切の範疇と連帯関係を持ち、従って又一定の社会的定位を持つ処の、問題なのである。それが数学のイデオロギー性に外ならない。
(数学に於ては、物理学や化学に於けると同じく、例えば哲学や社会科学又更に文芸や宗教などとは異って、「イデオロギーの社会学」――ジャーナリズム・アカデミズム・機構――はあまり問題にならないから之を省こう。)
自然科学[#「自然科学」に傍点]に於けるイデオロギーに就いて。――今世紀の初頭から、時間や空間、物質やエネルギー、に関する概念を次第に訂正しなければならなかった物理学[#「物理学」に傍点]は、この七八年来、遂に因果律に対する疑問にまで到着した。処が因果律の問題は、古来、自由乃至自由意志の問題と切っても切れない縁故があるという点からだけ云っても、物理学にとっては之程公共的な問題はないと共に、又之ほど致命的な問題はない。物理学に於けるイデオロギー性は、現在、この問題に連関して、そして物理学者の哲学イデオロギーを通じて、鮮かに明るみへ暴露されつつある。
何時の時代を取って見ても、物理学の世界では――尤も何処でもそうだが――様々な異説が対立していた。例えば光の粒子説や波動説、熱に関する熱素説や熱量説、等々。だがそう云った諸説の対立は云わば物理学の内部だけの問題であって、必ずしも直ぐ様外部との交渉に影響し
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