トはならない。今日の欧洲哲学は、歴史的発生を欧洲に有っているという事実にも拘らず、その本質に於ては、吾々の[#「吾々の」に傍点]哲学ででもなければならないのである。之に対して、印度哲学や支那哲学は今日ではそのままでは全く古典学的な遺産にしか過ぎず、わざわざこの古典学的骨董品に自分の根拠を求めようとする処の、この頃流行するわが国の国粋哲学――だが之も亦実は国際現象としてのファシズム哲学の一類例[#「一類例」に傍点]に外ならないのだが――は、事実、全く歴史的な又政治的な反動分子のたわごと[#「たわごと」に傍点]に過ぎない。
ギリシア哲学を源泉とし又主流とする今日の欧洲哲学は、欧洲だけの哲学ではなくて世界の哲学なのである。単なる歴史的事実として見れば哲学の一類例に外ならないこの哲学が、では何故そのような普遍的本質[#「普遍的本質」に傍点]を有つのか。外でもない夫が実証科学[#「実証科学」に傍点]との連帯関係を常に見失わなかったからである。
実証科学――幼稚な・迷信に類する・又発達した・科学性を有った――の知識は、人間の社会生活――物質的生産生活――にとって、欠くことの出来ない実践的知識[#「実践的知識」に傍点]である。今哲学がこの知識――この実践的範疇体系――と連帯責任を感じている限り、その哲学は実践的となる。と云うのは、人間の生活に役立ち[#「生活に役立ち」に傍点]、[#傍点]生活にとって実質的な意味を有つ[#傍点終わり]、哲学となるのである。之に反して哲学が之との連帯関係を無視すると、その哲学は生活に役立たず生活にとって何の実質的な意味も有たないから、おのずから歴史的に夫は淘汰されざるを得ない、そうした哲学は発達を止める[#「発達を止める」に傍点]のである。
だが、哲学が実証科学とのこの連帯性――夫を吾々は実証性[#「実証性」に傍点]と呼んでおこう――を有つか有たないかは、元来その哲学を産んだ世界観の如何から来ることを忘れてはならぬ。そこで吾々は、実践的世界観[#「実践的世界観」に傍点]と観想的世界観[#「観想的世界観」に傍点]とを対立させることが出来るだろう。無論前者の正統的[#「正統的」に傍点]発生物――逆のマイナス符号の発生物も不可能ではない――が実証性を有った哲学となるのである。――この際例えばギリシア的世界観と云っても決して一つのものだと考えてはならぬ、世界観自身が歴史的に推移又は発達する、ギリシア的世界観と一般に呼ばれるものも実践的世界観と観想的世界観との結合の様々な諸相を歴史的に展開して見せたというのが事実である。実践的世界観と観想的世界観とは、世界観に於けるモメント[#「モメント」に傍点]又は世界観の性格[#「性格」に傍点]を云い表わす、必ずしも歴史的に与えられた或る一つの世界観そのものの名ではない。
実践的世界観と云ったが、古来どれ程観念的な世界観であっても或る意味に於て実践的でなかったものはない、却って多くの観想的世界観は、それが観想的であればこそ或る意味の実践性[#「或る意味の実践性」に傍点]を主張する。原始仏教や儒教の「実践」哲学がそれである*。之に反して実践的世界観は、実践的であり得るが為めに却って一見観想的にさえ見えることがあるだろう。純粋自然科学の発達――そこから人間の技術が発達して来た――はそう云う世界観の齎物なのである。で、実践的世界観とは、云わば道徳的「実践」などを重んじる世界観のことでは必ずしもない、それはあくまで、科学的「実証」を重んじる世界観であったことを注意しておこう。
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* ソクラテスはギリシア哲学(それは元来自然哲学であった)の内にその「実践」哲学を導き入れた。処がプラトンに来れば明らかになる通り、このギリシア人にとって最も秀でた実践は正に「観照」なのである。――「実践」が如何に非実践的であり得るかが之でも判ろう。
[#ここで字下げ終わり]
さてそうすると、実践的世界観から発生する又は夫が根柢に横たわっている哲学は、当然実証性[#「実証性」に傍点]を有った哲学――但し無論かの「実証哲学」のことではない――、即ち実証科学と連帯を有った哲学、であらざるを得ない、ということになる。
実践的世界観から裏づけられた哲学は、まず第一に唯物論的存在論[#「唯物論的存在論」に傍点]である。之に反して観想的世界観に裏づけられた哲学は第一に、観念論的存在論[#「観念論的存在論」に傍点]となる。蓋し一般に存在論[#「存在論」に傍点]――存在・実在の理論――は哲学体系[#「哲学体系」に傍点]の第一段[#「第一段」に傍点]だと考えられる(第二段に就いては後を見よ)。
ギリシア哲学が学的な――単なる世界観ではない処の――哲学として始まったのはタレスからだと云われるが、そのタレス以来、ソフィスト達が出て来るまでのギリシア的世界観は、実証的な従って実践的な根本特色を以て貫かれている。そこでは自然や根本物質が中心の問題であり(自然観)、ピュタゴラス学徒の数の思想からが実はこの自然や根本物質の根本問題に答えるための一つの自然観であった。タレス自身が秀でた技術的知識の所有者であったことは知られている。処でこうした実証的・実践的・な世界観によって生まれたこのソクラテス以前の自然哲学は、何よりも唯物論的存在論として組織立てられている。それを最もよく代表するのはデモクリトスの原子論であった。デモクリトス的唯物論――原子論――が今日の実証科学に於ける原子論――原子物理学や量子論――の原型に当るということは必ずしも偶然ではない。
観想的世界観は最も好くプラトンの世界観に現われる。そして夫がプラトンの存在論を決定しているのである。彼――彼は当時のアテナイ貴族の最も卓越した代弁者である――によれば、観想こそは優れた生活の態度である、思索のための思索こそは人間の最高の天命なのである。だからこの世界観による世界像は諧調的な構造美を有つ宇宙[#「宇宙」に傍点]――秩序の完成――であり、彫塑的[#「彫塑的」に傍点]な完璧である。そこでは働くことが必要なのではなくて観る[#「観る」に傍点]ことが凡てでなければならない、存在は観想されねばならぬ。存在としての存在は見られてあるもの[#「見られてあるもの」に傍点]となる、之が元来彼のイデア[#「イデア」に傍点]――観念[#「観念」に傍点]――の意味であった。そしてここからその存在論であるイデア[#「イデア」に傍点]論が始まる、それが観念論[#「観念論」に傍点]の原型に外ならない。
この二つの古典的な原型で見られるように、唯物論と云い観念論という存在論に、たとえありと凡ゆる種類と分派とがあるにしても、一切の哲学は終局に於て[#「終局に於て」に傍点]観念論か唯物論かに帰着せしめられることが出来るのである。
処が、一般に存在論は存在に関する哲学体系であったが、哲学体系は範疇の体系[#「範疇の体系」に傍点]によって初めて組織立てられる。そして範疇の体系の形式を取り出して見るとそれが所謂論理学[#「論理学」に傍点]なのである。世界観は存在論を決定したが、今度は存在論が論理学を決定しなければならない。世界観―存在論―論理学。
実践的世界観は唯物論的存在論を決定し、之に反して観想的世界観は観念論的存在論を決定した。では唯物論的存在論と観念論的存在論とは夫々如何なる論理学を決定するか。前者は(唯物)弁証法的論理[#「弁証法的論理」に傍点]を、後者は形式的論理[#「形式的論理」に傍点]を決定するだろう。
唯物論的存在論によれば、存在は物質[#「物質」に傍点]――之は物理学でいう物質の範疇とは別である――である。と云うのは、存在は終局に於て観念――人々は之を主観とか意識とか自我とか名づける――から独立に存在する、従って又観念の力を借りることなくみずから運動する、と考えられる。だからここでは観念はいつも自分の外に横たわって運動している存在を捉えなければ[#「捉えなければ」は底本では「促えなければ」]ならない。処で論理とは観念が存在を捉える[#「捉える」は底本では「促える」]ための観念形式なのだから、この場合の論理は単に論理としての論理――論理・観念の自己同一性[#「自己同一性」に傍点]――に立脚することに止まることは出来ずに、論理外のものの論理化[#「論理外のものの論理化」に傍点]として機能しなければならない。即ち論理は単に論理としての[#「論理としての」に傍点]論理ではなくて、非論理的な存在に関する論理でなくてはならぬ。之が矛盾[#「矛盾」に傍点]と呼ばれる特色をなす。こうした論理機能を自覚したものが弁証法的論理[#「弁証法的論理」に傍点]である。そして弁証法的論理は、今述べた処で判るように、常に唯物論的なものでなくてはならなく出来ているのである(但し弁証法は何も論理[#「論理」に傍点]に限らない、元来夫は存在[#「存在」に傍点]の運動法則だということを注意しておこう)。
之に反して観念論的存在論によれば、存在とは観念ということである。だからこの場合の論理は、観念に就いての観念の把捉形式の外ではない。論理は論理・観念の自己同一性[#「自己同一性」に傍点]にさえ立脚すれば好い(同一律と矛盾律)。そうした論理が形式的論理[#「形式的論理」に傍点]なのである。――唯物論は弁証法的論理を、観念論は形式的論理を、決定する。
観想的世界観―観念論的存在論―形式論理学。及び実践的世界観―唯物論的存在論―弁証法的論理学。まずこの二群の公式を以上のように導来しておこう。
さてこの二群の公式は哲学イデオロギーの[#傍点]歴史的発生の順序と構造[#傍点終わり]とを云い表わす。そして之が今のブルジョア哲学[#「ブルジョア哲学」に傍点]とプロレタリア哲学[#「プロレタリア哲学」に傍点]とを区別する組織的な測定器であることを注意すべきだ。でこの公式は哲学というイデオロギーの[#傍点]歴史的社会的存在に関する階級的制約[#傍点終わり]を云い現わすものなのである。
だが一般にイデオロギーの階級性[#「階級性」に傍点]――それが特に微細に具体化されると党派性[#「党派性」に傍点]ともなるが――は決して、イデオロギーの今云ったような歴史的社会的存在に関する階級的制約に尽きるのではない。と云うのは、どのイデオロギーが真理[#「真理」に傍点]であってどのイデオロギーが虚偽[#「虚偽」に傍点]であるかが、イデオロギーの何よりも重大な階級性[#「階級性」に傍点]の内容だからである。
処でブルジョア哲学とプロレタリア哲学と、いずれが科学的に真理であるか、これも亦今の公式によって、終局的に解答されることが出来ねばならぬ。それは形式的論理学と(唯物)弁証法的論理学とを、その論理としての資格に於て対比すれば出て来ることである。――一体形式的論理学は存在をその運動の現勢に於て捉えることが出来ない、それは存在を形式的な自己同一性に於てしか捉えることが出来ない、之に反して(唯物)弁証法的論理学は存在を運動のままの姿に於て捉えることが出来また捉えねばならぬ(蓋し弁証法に於ける矛盾とは、運動するものを運動のまま捉えようとする場合を、形式論理の範疇で批評したものに外ならない)。所で実際存在は、少くとも運動し得る[#「運動し得る」に傍点]ものでなければなるまい。――だが弁証法的論理学は決して形式論理学と互角に相反撥するのではない、すでにそれは形式論理学を自分のモメントとして、一つの特殊な極限の場合として、含んでいる。存在はその静止[#「静止」に傍点]の状態に於てのみ形式論理学の範疇に忠実なのである。で形式論理学は弁証法的論理学の一つのセクションに過ぎない。一体何れが論理として役に立ち又普遍性を持っているかは、之で判るだろう。
夫々の世界観や夫々の存在論は、銘々他の世界観や存在論から独立であることが出来る、いずれが正しくいずれが不当であるかなどという比較を、拒もうとすれば拒むことは出来
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