メは、だから、どれ程科学的であろうとも、必ずしも意識という概念の説明に於て権威を有つものではない。心理学的意識概念は、常識的な概念乃至用語のセンスによって、裏切られる。――一つとして数学の名辞のように定義出来る日常概念はない、誰が一体机を定義出来るか、誰が一体家を定義出来るか。こうした概念の諸規定はそれに対立した諸規定によって、順々に否定されることによって、初めてほぼ纏った一つの概念となることが出来る。ヘーゲルが指摘する通り、凡そ概念と呼ばれる限り、それは弁証法的なものであらざるを得ない。――意識の概念も亦そうした弁証法的な概念であることを今、忘れてはならぬ。
心理学、その代表的なものは実験心理学であるが、この科学にとって、意識とは常に個人[#「個人」に傍点]が有っている意識のことを意味する。考え方によっては個人ばかりではなく団体も亦――群集・法人・民衆・国民等々――意識を有つと云われなくはないが、そうした団体のもつ意識も実は、個人の有つ意識の概念を基準として、初めて意識の名を与えられることが出来る。個人のもつ意識という概念は、一切の意識の概念のモデルと考えられる。個人の意識[#「個人の意識」に傍点]と群集の意識[#「群集の意識」に傍点]とが異ることを、或る心理学者達がどれ程強調しようとも、両者が同じく意識と呼ばれる理由は、外でもない両者とも同じく、個人的意識[#「個人的意識」に傍点]――もはや必ずしも個人のもつ[#「もつ」に傍点]意識に限られない――だという処に横たわる。
実際、実験心理学(従って、又一般に心理学)が、生理学――それは生物個体[#「個体」に傍点]に関する理論である――にその物質的基礎を求めなければならない以上、その意識の概念は個人的意識[#「個人的意識」に傍点]である外はない。――だがこの点は、謂わば哲学的心理学[#「哲学的心理学」に傍点](F・ブレンターノの『経験心理学』やナトルプの『一般心理学』)・現象学・哲学(「先験心理学」其他)などに於ても、今まで少しも変る処はないのである。哲学的心理学や現象学乃至哲学などに於ける「意識」は、――最も特徴ある場合を採るとして――それが如何に「純粋意識」(フィヒテ、フッセルル)であろうと「意識一般」(カント)であろうと、要するに個人のもつ意識(それは個人意識とか経験的意識とか呼ばれる)から蒸溜されたものであって、個人の意識の外に横たわるにも拘らず依然として個人的意識[#「意識」に傍点]の概念に依っていることを免れない。
哲学者――実は観念論者――は好んで意識の超個人性[#「超個人性」に傍点]を又は超意識性[#「超意識性」に傍点]をさえ主張するが、そうした主張は、自分が観念論者乃至超観念論的観念論者であることを証拠立てているまでであって、却って皮肉にも意識概念の個人性を、個人主義的[#「個人主義的」に傍点]見解を、暴露しているに過ぎない。
かくて哲学と云わず科学(今は特に心理学)と云わず、従来、観念論の組織の上に立ち又は之と友誼関係を結んでいる諸体系にとって、意識とは個人的意識[#「個人的意識」に傍点]の謂だったのである。意識は全く意識主義的[#「意識主義的」に傍点]に、個人主義的[#「個人主義的」に傍点]に、だがそれは結局観念論的[#「観念論的」に傍点]に、しか取り扱われなかった(以上の意識の概念に就いては、第六章に詳しい)。
こういう取り扱い方によれば、意識の問題は、意識そのものを道具としてしか解決出来ない、意識を説明するものは意識自身である。意識は最後のもので最初のものだ、ということになる。――では併し、意識と他の諸存在との関係――意識も亦一種の存在 Bewusstsein であるが――との関係はどうやって与えられるか。意識乃至観念が凡てである(尤もこの場合意識乃至観念の概念は色々に都合好く偽装してではあるが)、では他の諸存在はどうなったか。それこそは観念論者に聞くがいい。
だが意識は決して、単なる意識としてあるのではなくて、何物かの意識[#「何物かの意識」に傍点]としてしかないのである。或る形の観念論の主張に従って、一切の存在が意識として初めて、意識されることによって初めて、存在出来るというならば、それだけ却って一層、一切の意識は何物かの意識だということにならなければならぬ。併しそうすると、意識はもはや意識として独立する[#「意識として独立する」に傍点]ものとしては意味を失うのであって、却って意識は或る意味に於て他の存在に依存[#「依存」に傍点]せねばならぬということになる。と云うのは、仮に意識を担うと考えられる主体――個人――が転変しようとも、一定の意識を形づくる処の存在そのものは転変しないかも知れず、従ってその意味に於て意識の内容は意識の主体――個人――を超えて一定形態を保つことが出来る、というのである。
自我とか精神とかいう何か意識の担い手を意識と呼ぶのではなくて――だが哲学では大抵それを意識と考える――、意識現象の一定内容を意識と考えるならば、意識は当然意識以外の存在[#「意識以外の存在」に傍点]に依存せねばならぬという必然性が出て来るのである。
でこういう理由からすれば、別に何の形而上学的範疇*――例えば純粋自我・純粋意識其他に関する処のもの――の手を借りなくても、而もより決定的に、意識の概念は個人――意識の担い手・主体――を超えて理解出来るし、また理解されねばならぬ。こうして得られた意識の概念こそ、本当の――形而上学的範疇を借りない処の――超個人的意識[#「超個人的意識」に傍点]である。従来の哲学に於ける所謂超個人的意識――純粋意識・意識一般・絶体意識・等々――は、なおまだ、超個人的に考えられることを強制された個人的意識[#「個人的意識」に傍点]に過ぎなかった。
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* 普通、哲学概論式な概念によれば、形而上学的[#「形而上学的」に傍点]とは「認識論的[#「認識論的」に傍点]」又は「現象学的[#「現象学的」に傍点]」に対立する。だが吾々によれば、単に存在の意味の解釈[#「存在の意味の解釈」に傍点]を与えることに終始し、従って存在の意味の秩序を以て存在そのものの秩序と思い誤る処の、理論的方法が、形而上学的である。
[#ここで字下げ終わり]
併し有力なそして又実際尊重すべき従来の観念論の或るものによれば、意識の概念はすでに略々今云った意味に近い点にまで引き寄せられていないのではない。超個人的意識は歴史的意識[#「歴史的意識」に傍点]として、個人を超越せしめられる。歴史を遍歴する処の理念[#「理念」に傍点]として、歴史的伝統の主体である精神[#「精神」に傍点](例えば客観的精神[#「客観的精神」に傍点])として、又歴史的理性[#「歴史的理性」に傍点]として、――人々はヘーゲルやディルタイ等を考えるべきだ――、それは鮮かに[#「鮮かに」に傍点]個人を超越する。例えばフィヒテに於ける(個人の)経験的意識から純粋自我の超個人的な(?)意識への超越は、決してこのように鮮か[#「鮮か」に傍点]ではない。と云うのは後者の場合に於ては、その所謂超個人的意識が、個人の意識からの形而上学的[#「形而上学的」に傍点]な超越の結果であったために、依然として個人的な意識の範疇の外へ出ることが出来なかったが、前者の場合は之と異って、個人的意識が実際に超個人的な意識にまで超越したと、一応は見られねばならぬのである。
凡ゆる意味に於ける文化[#「文化」に傍点]、広く理解された学術や芸術、又同じく広い意味での道徳や宗教まで入れて一切の文化は、従来こうした超個人的な意識という範疇によって理解され又取り扱われて来た。歴史主義[#「歴史主義」に傍点]や歴史哲学[#「歴史哲学」に傍点]、又文化哲学[#「文化哲学」に傍点]や文化社会学[#「文化社会学」に傍点]は、そうした超個人的意識の内容に関する学に外ならない。個人的意識[#「個人的意識」に傍点]は今や歴史的意識[#「歴史的意識」に傍点]に改変される。
併し従来の所謂「歴史哲学」――それはドイツ観念論の嫡出子である――は、観念論的歴史観[#「観念論的歴史観」に傍点]を以て貫かれているのを特色とする、人々はこの点に注目せねばならぬ。だから又そういう「歴史哲学」の根本概念としての歴史的意識[#「歴史的意識」に傍点]も亦、おのずから観念論的に理解されるべき大勢の下に立たざるを得ない。それは併し取りも直さず、個人的意識の範疇によって歴史的意識が理解されねばならぬのが大勢だ、ということに外ならぬ。――だから、歴史的意識は元々個人的意識から超個人的意識への超越のために持出されたものであるにも拘らず、元の個人的意識を本当に超越して了っては結局行き処を持たなくなり、戸まどいせざるを得なくなる。そういう破目に立たされる。
個人的意識から超個人的意識へのこの歴史哲学的飛躍[#「歴史哲学的飛躍」に傍点]は、前の形而上学的飛躍[#「形而上学的飛躍」に傍点]と、結局の結果に於ては、大差がない。「歴史哲学」は実際、つまる処歴史の形而上学[#「歴史の形而上学」に傍点](或いは又社会の形而上学)にまで行きつくべきものなのであった。
本当の歴史的意識――超個人的意識のそういう一種の規定――の概論は無論、そのような形而上学的[#「形而上学的」に傍点]な意識の概念であってはならぬ、それは取りも直さず歴史的な[#「歴史的な」に傍点]意識の概念でなければなるまい。だが、歴史的ということは同時に又社会的[#「社会的」に傍点]ということでもあるのを忘れてはならないのである。実際「歴史哲学」・歴史主義・「文化哲学」、又「文化社会学」さえが、その歴史[#「歴史」に傍点]の概念を、そして又その社会[#「社会」に傍点]の概念をさえ、決して充分に社会的規定[#「社会的規定」に傍点]の下に照らし出してはいない。それであればこそ此等の科学が、要するに「歴史哲学」・歴史主義・「文化哲学」・「文化社会学」等々であって、それ以上のものではあり得なかったのである。
超個人的意識はだから、今や単に「歴史的意識」ではなくて更に同時に、社会的意識[#「社会的意識」に傍点]でなければならなくなる。――意識が依存する処の存在、意識を規定する処の存在、それが単に歴史[#「歴史」に傍点]ではなくて更に又社会[#「社会」に傍点]でなければならなくなったわけである。それは純粋自我とか神性とかいう形而上学的存在ではなく、――又歴史哲学的な――「歴史」というような半形而上学的な存在でさえなくて、正に歴史的社会[#「歴史的社会」に傍点]と呼ばれる存在でなければならなくなった。――歴史的社会が意識[#「意識」に傍点]を決定する、意識は歴史的社会に依存する、意識は歴史的社会に於ける[#「に於ける」に傍点]一つの特殊な存在である。それは社会的意識[#「社会的意識」に傍点]である、之こそが本当の超個人的意識[#「超個人的意識」に傍点]なのである。
そう云っても併しまだ規定は根本的には不充分である。社会的意識――この超個人的意識――はもはや全く個人的意識[#「個人的意識」に傍点]ではないにも拘らず、やはりまだ個人主義的に取り扱われるのが、之までの伝統であるように見える。と云うのは、社会的意識は社会心理学[#「社会心理学」に傍点]にとっての対象であるが、この社会心理学なるものが、全く個人心理学からの類推か拡大かに帰着するのであって(ル・ボンの『群集心理学』やマクドゥーガルの『社会心理学』を見よ)、結局個人として個人のもつ意識から出発して社会の又は社会人の意識を取り上げようとするものに外ならないからである。だからここでは社会的意識が、まだ殆んど社会[#「社会」に傍点]自身の契機からは問題とされずに、依然として意識[#「意識」に傍点]の契機から、即ち又個人的意識の契機からしか取り上げられていない。で意識が、歴史的社会の存在に依存し、夫によって規定されるなどという
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