イデオロギー概論
戸坂潤

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(例)形而上学的範疇*――
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[#1字下げ]序[#「序」は大見出し]


 私は二年あまり前に、『イデオロギーの論理学』を出版したが、今度の書物は全く、それの具体化と新しい領域への展開なのである。が、そればかりでなく、又その敷衍と平易化とでもあることを願っている。
 イデオロギーの問題が、一般社会から云っても又階級的に云っても、至極重大な客観的な意味を有っていることを、今更口にする必要はないであろう。併しこの問題は世間の人々が想像しているように、それ程決って了った問題でもなければ、又充分に検討し尽されつつある問題だとさえも云えない。それは甚だ多くの未知のものを吾々に約束しているように見える。私はそこで、事物をイデオロギー論的に[#「イデオロギー論的に」に傍点]取り扱うための基本的な計画を立てて見ることにした。それがこの書物である。
 だから私にとって、イデオロギーの問題は単に一つの顕著な大事な問題というだけではなく、可なりの広範さと普遍さとを有った原理的な[#「原理的な」に傍点]問題として現われる。この書物は単に読者にとっての手引きであるばかりでなく、又著者自身の科学的労作にとっての入門書なのである。それで今の場合、イデオロギーに関する歴史的叙述に立ち入る余裕がなかったのは遺憾である。
 第二部の批判的な各章は以前発表したものを元にし、之を短かくし且つ訂正したものである。併しこの各章が、単なる批判[#「批判」に傍点]ではなくて、実は夫々一定の公式[#「公式」に傍点]を導き出すためのものだという点を、注意して欲しい。
 一九三二・一〇
[#地から9字上げ]東京
[#地から2字上げ]戸坂潤
[#改ページ]


第一部「社会科学」的イデオロギー論の綱要[#「第一部「社会科学」的イデオロギー論の綱要」は大見出し]



[#1字下げ]第一章 イデオロギーの問題[#「第一章 イデオロギーの問題」は中見出し]



[#3字下げ]一[#「一」は小見出し]

 云うまでもなくそれ自身としてはブルジョアジーのものである処の、わが国に於ける文壇や論壇、又学壇をさえ一貫して、マルクス主義的・社会科学的・認識が今日では可なりよく普及していると見て好い。一部分の、無意識的にか又は故意にか、敢えて迷蒙に止まろうと欲しているとしか考えられない諸反動分子は例外として、わが国のインテリゲンチャ層は大勢から云って、マルクス主義的・社会科学的・諸範疇を夫々の程度に承認し、而も之を相当日常化して使っているだろう。イデオロギー[#「イデオロギー」に傍点]という言葉乃至概念も亦例外ではない。
 諸種の反動的な「学者」や「専門家」達にとっては、それにも拘らずこの概念は、あまり好ましくない、厄介な、又は軽視されねばならぬ、ものであるように見える。之は高々一群の学徒にしか過ぎない社会学者達だけが口にしても好い言葉であって、その社会学者達自身さえが止むを得ない必要のない限り真面目に用いてはならぬ言葉である、と彼等は考えているようである。
 こう考えて見ると、イデオロギーという概念を承認するかしないか、又どの程度に夫を承認するかは、その国のインテリゲンチャがどの程度に進歩的であるか無いかの標準になる。蓋しインテリゲンチャの最も手近かな問題は、要するに知能的[#「知能的」に傍点]な――インテリゲンツの――問題であって、従って文化とか意識とかが彼等の何よりもの生活問題になるのが普通だから、彼等にとってはイデオロギーが最も手近かな問題であり、即ち又イデオロギーの問題は、彼等によってこそ最初に取り上げられる理由があるのである。
 わが国のインテリゲンチャも国際世界の大勢に従って、資本主義制度の社会的停滞と共に次第に無用のものとなり、それだけ自然の結果として低能化して来た今日、丁度ドイツの学生達が反動的であるように――彼等はその進歩性をフランス大革命への感激の涙と共に流し去って了った――反動化しつつあるのは事実である。そうだとすればたといイデオロギーという言葉[#「言葉」に傍点]が一般的に適用していても、イデオロギーという問題[#「問題」に傍点]そのものはわが国のインテリゲンチャにとって、次第に意味を失って行くかも知れない。インテリゲンチャはその唯一の特有な社会的能力である処の彼等のインテリゲンツ(知能)を失って了う、イデオロギーなどという問題は彼等にとってどうでも好くなる。この問題は、自己満足的な低劣なジャーナリズム(ジャーナリズムは併し本来そういう低劣なものではないのだが)の欲するままに躍っては消える流行[#「流行」に傍点]に過ぎないと云うことにもなるだろう。
 イデオロギーの問題は少くともインテリゲンチャが進歩的である限り、常に支配的な問題に止まるだろう。又止まらねばならぬ。だが、インテリゲンチャの反動化――併しそれはインテリゲンチャのインテリゲンツ喪失・低能化・自己喪失と一つである――と共に、イデオロギーの問題も亦消滅すると考えたならば、夫は大きな誤りだと云わねばならぬ。否この問題はプチブル・インテリゲンチャなどの眼の前からは、出来るだけ早く消え失せて行くがいい。その時こそは、この問題が、[#傍点]大衆自身の本当のインテリゲンツ[#傍点終わり]の興味の対象となることの出来る時なのである。

 イデオロギーの問題は、或る意味に於ける観念[#「観念」に傍点]乃至意識[#「意識」に傍点]の問題である。で観念乃至意識が又或る意味に於ける根本問題の一つである限り、イデオロギーも亦――或る意味に於ける――一つの根本問題でなくてはならぬ。――だが「観念」乃至「意識」の問題とは抑々何であるか。
 一体近世[#「近世」に傍点]哲学の何よりもの特色は、それが色々の意味でではあるが結局「意識の問題」から出発するという点に横たわる。すでにデカルトは自己意識――我考う故に我在り――を哲学的省察方法の立脚地としたことは能く知られている。ライプニツやカントの問題が意識――表象者モナド・意識一般――であったことは云うまでもないが、最も意識の問題から遠いと考えられるスピノザさえが、実体概念の必要な一条件として、それ自身によって考えられ得る[#「考えられ得る」に傍点]という点をつけ加えるのを忘れない。フィヒテの純粋自我、シェリングの自由意志の省察、ヘーゲルの絶対精神等々、凡そ近世の、特にドイツ的精神の伝統にぞくする、哲学――実はドイツ観念論――では、総て意識がそれの問題であり、従って又その出発の地盤となっている。
 近代[#「近代」に傍点]哲学を代表するフッセルルの本質直観やベルグソンの直覚は、意識の構造又は実質をどうやったらば捉えることが出来るか、ということに答えている処の哲学的手段であるし、新カント学派の課題と雖も、結局はこうした意識の問題を解くための別な装置を見出すことに外ならなかった。
 だが意識の問題は無論決してデカルトなどから始まったのではない。ヘブライ思想とギリシア思想との結合者であった処の、併し結局ヘブライの宗教意識の神学的組織者であった処の、教父聖アウグスティヌスにまで、吾々はこの問題を溯らせることが出来るだろう。意識は、近世に於ける資本主義的な個人[#「個人」に傍点]の自覚によって初めて公然と哲学の日程に上ったのではあるが、それよりも前に、すでに人間の宗教的な内面性[#「人間の宗教的な内面性」に傍点]の観念と同伴して、哲学の問題にまで提出されていたのである。尤もそれが哲学に対する殆ど完全な支配権を得たのは近世以来のことであると云って好く、又同じ近世に於てもその支配する形態は様々であるが、――例えば表象として自覚として自我として理念として等々――、吾々はその終局の起源をヘブライ思想が哲学体系にまで組織化されたこの時期に求めねばならぬだろう。
 処で更に、これ等の意識の哲学が、観念[#「観念」に傍点]の哲学としてみずからを特色づけることによって、哲学史上の生存権を得ることが出来た、この点を注意せねばならぬ。そして観念の哲学――それは観念の問題[#「観念の問題」に傍点]から出発する――は、今云ったヘブライ思想に先立って、ギリシア思想の代表的な伝統の一つに外ならない。と云うのは、夫はプラトンの世界観によって後々の不抜な思想体系のための礎石として置かれたのである。聖アウグスティヌスも近世に於けるカント又ヘーゲルも、観念の問題から出発する観念の哲学としてである限り、全くプラトニズムの範に従って出来上った。之が哲学思想に於ける観念論[#「観念論」に傍点]に外ならない。
 かくて意識の問題から出発する従来の凡ゆる哲学は、それであるが故に又必然的に観念論に帰着する。――云い換えれば、従来、意識[#「意識」に傍点]の問題は常に、観念論によって、観念論的[#「観念論的」に傍点]に取り扱われることが、本格的であったということが判る。
 従来の多くの支配的な哲学――吾々はそれを正当な理由で広く観念論と呼ぶことが出来る――は、意識[#「意識」に傍点](乃至観念[#「観念」に傍点])から出発する、それがこの哲学の問題の地盤であり問題解決の鍵の所有者であり、又最後の解答者でもあるのだ。

 だが実際、意識とは何であるか。
 意識は無論哲学者だけにとっての科学的問題ではない、之を何よりもの固有な問題とするものは寧ろ心理学者であるように見える、心理学とは、心(Psyche)の、即ち又意識の、学でなければなるまい。併し心理学と雖も、一旦之が意識だと一応決められたものに就て、その意識の構造・機能・諸条件が何であるかは明らかに出来ても、抑々如何なるものを意識と呼ばねばならぬかは、最も基本的な問題であるにも拘らず、決して一義的には科学的に決定出来ない。それは必ずしも心理学が発達していず又はその基本的な省察が未熟であるからではなくて、其他の諸科学全般に於てもこの点に余り大した相違がないのである。でこの点は恰も一般に科学にとっての基礎概念――心理学では夫が意識である――が、もはや単純には科学[#「科学」に傍点]にだけぞくし得ない処の常識的[#「常識的」に傍点]な日常概念[#「日常概念」に傍点]と接触している最もデリケートな活き活きした点である、ことを告げている。実際、意識という概念は、それが専門的な心理学者によってどう決定され又どう是正されようとも、それとは可なり独立に、世間的に、常識的に、併し定義すべからざる厳密さを持った一定概念として、通用しているのである。
 殆んど総ての概念がそうであるが(例えば感覚[#「感覚」に傍点]は心理学的に云えば一つの単純な心的要素に過ぎないが日常的には認識・判別・批評的判断・性格的能力・などの極めて複雑な力を意味する――センス)、専門的な概念――夫はやがて術語となる――は他方に於て日常的な概念と平行し複合しているのを常とする。と云うのは科学的諸概念は元々常識的な言葉から洗練し出されたものに外ならないからである。
 処で、意識が、心理学的な、或いは最も著しい場合を採るのが好都合とすれば実験心理学的[#「実験心理学的」に傍点]な、概念であると共に、同時に吾々が日常用いている一つの常識概念でもあるということが、この概念の色々な困難を用意する。――心理学
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