驍烽フは、理論的な[#「理論的な」に傍点]把握の仕方のことを恐らく指すのであろう。だが実際には、理論的な把握さえが、人々の云うような意味では単に概念的ではないのだが。
 そこで範疇は、こういう――基本的な意味での――概念の、根本的な場合を指すべきである。尤も、アリストテレスによれば範疇は言表の類型[#「言表の類型」に傍点]であり、カントによれば夫は認識形成の形式[#「認識形成の形式」に傍点]であるに止まっているが、之は範疇の至極部分的な示し方にしか過ぎない。元来範疇はこれ等の人々が考えたように、社会的に又は先天的に、与え[#「与え」に傍点]られているだけのものではない、範疇は社会的に発生[#「発生」に傍点]するものなのである。と云うのは、仮に範疇をばこれ等の人々がするように、言葉[#「言葉」に傍点]によって云い表わされた(根本)概念だとすれば、それよりも先に言葉で云い表わされたこういう(根本)概念を産まねばならなかった処の(根本)観念[#「観念」に傍点]が、すでに範疇の性格を持っていなくてはならないのである。範疇は、自らを範疇にまで生成する過程――歴史的社会に於ける――そのものによって
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