]っても亦、少くとも以上のように考えられなければ、内容のない形式論理学[#「形式論理学」に傍点]の埒外へ一歩も出ることが出来ないだろう。――イデオロギーの心理学[#「心理学」に傍点]とは、だから外でもない、イデオロギーの論理学[#「論理学」に傍点]を中心として帰趨するものである。だが夫がもはや単に心理学に止まることが出来ずに論理学でなければならない理由は、寧ろこれから後に出て来る。それはこうである。
 意識は――前に述べておいたように――存在に就ての意識でしかなかった、意識内容は存在の反映なのであった。処が存在の構造[#「存在の構造」に傍点]を吾々は、最も一般的に――先に述べたよりも更に一般的に――論理[#「論理」に傍点]と呼ばねばならない理由がある。それは今述べよう。仮にそうとすれば意識の統一・立体性を与えるものが論理でなければならないということは、実は極めて当然なことではなかったろうか。存在の――必然的な――構造としての論理が、意識の構成力としての論理となって、反映するに過ぎないのである。
 では存在の必然的な構造が何故論理であるか。存在としての存在・存在それ自体・の構造は、それだ
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