は、云うだろう。なぜ一体そういうものを論理[#「論理」に傍点]と呼ぶことが出来るのか、なぜ又それを論理と呼ばねばならなくて他の名で呼んではならないか、と。併し、何故人々は論理学の教科書で教えるものだけを論理と考えねばならないのか。優れた芸術家に於ては、感覚(センス)――感情――はそれ自身の内部的な形成力によって必然的な一義的な作用連関の構造を張るのだし、政治的実践家の優れた者は、意志活動の無限な諸作用の内に、同じく一義的で必然的な連関を見出すのである。この連関が例えば数学的直観に於てのように一義的で必然的であるという事実は、理論的な諸作用の連関の場合と、少しも異るものではない。こうした構造形成力の必然性が吾々の謂う論理[#「論理」に傍点]である。――もし意識を知情意に三分するのが便宜だとすれば、単に知識ばかりではなく、感情や意志も亦それぞれの形態の論理[#「論理」に傍点]によって初めて感情や意志として機能することが出来る。ただ知識は、理論は、この論理を特に――概念的なものとして――自覚出来るが故に、特に特徴的に論理的・概念的だと考えられるに過ぎない。所謂[#「所謂」に傍点]論理――知識
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