って、個人の意識の外に横たわるにも拘らず依然として個人的意識[#「意識」に傍点]の概念に依っていることを免れない。
哲学者――実は観念論者――は好んで意識の超個人性[#「超個人性」に傍点]を又は超意識性[#「超意識性」に傍点]をさえ主張するが、そうした主張は、自分が観念論者乃至超観念論的観念論者であることを証拠立てているまでであって、却って皮肉にも意識概念の個人性を、個人主義的[#「個人主義的」に傍点]見解を、暴露しているに過ぎない。
かくて哲学と云わず科学(今は特に心理学)と云わず、従来、観念論の組織の上に立ち又は之と友誼関係を結んでいる諸体系にとって、意識とは個人的意識[#「個人的意識」に傍点]の謂だったのである。意識は全く意識主義的[#「意識主義的」に傍点]に、個人主義的[#「個人主義的」に傍点]に、だがそれは結局観念論的[#「観念論的」に傍点]に、しか取り扱われなかった(以上の意識の概念に就いては、第六章に詳しい)。
こういう取り扱い方によれば、意識の問題は、意識そのものを道具としてしか解決出来ない、意識を説明するものは意識自身である。意識は最後のもので最初のものだ、
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