I機能を果さねばならぬ。と云うのは、元々欧洲の旧い諸大学は封建的(乃至又宗教的)旧制度の必要を充すべく出来上ったのが多いのであるが(例えばオックスフォード・ソルボンヌなど)、資本主義制度によって確立された其後の諸大学も、多かれ少なかれこの封建制度からの伝統にぞくしているものが多い(例えばドイツの新しい大学やわが国の帝国大学の如き)。だが今日では封建的残滓は資本主義の敵ではなくて却って末期的資本主義の最後の武器となる。それは懐古的国粋的――乃至ファシスト的――反動の役割を、今日の半封建的諸大学に課している。そしてこの点では純粋に資本主義的な――かの伝統から自由な理想の下に生まれた――諸大学(わが国の初期の私立大学の如き)も、今日では殆んど之と異る処はない。なぜなら殆んど凡ての資本主義諸大学が一様に、資本主義にとってのイデオロギー的機能を果すために、かの伝統に合流することによって或いは又独立に、ファシスト的反動化を行わざるを得なくなったからである。大学は事実今日資本主義国家の完全な武器となり終った。
かくてアカデミーの機能――それがアカデミズムである――は、この大学の本質・国家機関としての機能によって、一定の予め可能であった方向に実際に歪められて来る。アカデミズムは元々それが持っていた自己の固定化[#「固定化」に傍点]・惰性化[#「惰性化」に傍点]の可能性を愈々実現される、そうでなければ之に反動的な役割を容易に課すことは出来ない。処が次にアカデミズムはその反動的役割の内に、今や自らの学的価値[#「学的価値」に傍点]をさえ自覚しようと欲する。そうなると之はもはや単なる固定化や惰性化ではなくて、その生命であった基本性[#「基本性」に傍点]・原理性[#「原理性」に傍点]の喪失でなくてはならぬ。アカデミズムは完全な廃頽物となって了うのである。――之が今日の資本主義制度下に於けるアカデミズムの歴史的形態[#「歴史的形態」に傍点]なのである。
処が今日のジャーナリズムも亦、資本主義によって抜くべからざる歪曲を受けている。ジャーナリズムの今日の形態は出版資本[#「出版資本」に傍点]の副産物に過ぎないとも云うことが出来る程に、資本主義――印刷・製紙の技術や販売組織に現われる――は近代ジャーナリズムの抑々の発育期から之を制約している。初めから資本主義と同伴しなければならなかったという
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