Iである限り、決して無益ではない。だが吾々は今、このような史観が一般にどのような欠陥を有つか、それが又どのような社会的勢力と結合しているか、又それからル・ボン自身がどのように俗流的な無責任な結論を引き出だすか、などに就いて語る必要を有たない。問題は、社会心理学[#「社会心理学」に傍点]という科学が、このような場合――意識から出発する場合(そうでない場合もあった筈であるが――前と後とを見よ)――如何に観念論的歴史観[#「観念論的歴史観」に傍点]に到達せねばならないかを、この代表的な社会心理学者ル・ボンに於て見ることが出来る、という点に存在する*。
[#ここから2字下げ、折り返して3字下げ]
* ル・ボンの『群衆心理学』は最も重大な古典的文献であるが、それに対する批評も亦決して少なくない。それに就いては 〔G. Mu:nzner, Oeffentliche Meinung und Presse〕 を見よ。
[#ここで字下げ終わり]
(この場合に於ける社会心理学なるもの――そして之は何もル・ボンだけの社会心理学に限られてはいない――の、科学としての性格は、だからすでに明らかである。人々は従って、之が階級社会に於て事実上演じる役割が何であるかを容易に知ることが出来る。)
ル・ボンの群衆心理学を、独特な仕方で補ったのは――再び――フロイトであった。フロイトはル・ボンの群衆心理学の内に、自分の Tiefenpsychologie と同じ結論を見出す*。ル・ボンは、群衆の心理が至極催眠状態に似ていることを指摘し、群衆が原始人と同じ意識状態に置かれるものであると主張する。之等の記述はフロイトが見た精神の規定と誠に能く合致するだろう。併し何より大事な一致は、ル・ボンが群衆心理を一種の無意識現象と見た点に横たわっている。群衆は自主性を失った無意識の内に行動する。処が無意識こそはフロイトによれば、精神の深い奥底であった。ル・ボンが群衆心理に於て見た処のものは、今云った限り、実はフロイトが精神――それは併しまだ群衆の精神ではない[#「群衆の精神ではない」に傍点][#「まだ群衆の精神ではない[#「群衆の精神ではない」に傍点]」は底本では「まだ群衆の精神ではな[#「だ群衆の精神ではな」に傍点]い」]――に於て見た処のものである。だからそこで、フロイトの精神分析は、ル・ボンの群衆心理学にまで移
前へ
次へ
全189ページ中169ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
戸坂 潤 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング