T念自身とが担っている、今日の吾々の社会の必然的[#「必然的」に傍点]な歴史上[#「歴史上」に傍点]の負担なのである。
ブルジョア社会の概念を社会そのものにまで一般化し永久化そうとする処の、ブルジョア的社会概念を、分析解体することによって、その反対物にまで導いたものは、マルクス主義の理論である。之によってブルジョア社会は、その内部的矛盾のために必然的に形態転換しなければならない処の、成長し且つ老いて行く一の生命過程として、特色づけられる。社会のこの過程の転換する諸要素間の差異関係であってこそ初めて、諸個人の意識内容の諸要素間のそれぞれの差異関係に、実質的に[#「実質的に」に傍点]結び付けられることが出来るのである。マルクス主義的社会概念――そしてこれは取りも直さずブルジョア社会を変革するプロレタリアのもつ社会概念であるが――であって初めて、社会は自分と意識(個人)との実質的な関係を見出すことが出来る。そうでなければ、高々、要するに社会は全体で個人(意識)は部分であるとか云うことが出来るに過ぎず、両者の関係は結局、全体と部分とかいうような空虚な隙だらけの容器に盛られて了う外はない。
だが此の際、意識(個人)の概念も亦、マルクス主義によって、従来のものから根本的に変革されなければならない。従来の個人的意識[#「個人的意識」に傍点]はもはや此の際、そのままでは意識概念として役立たないことが見出される。意識は個人が持つことに疑いはないとしても、その個人が吾々によれば、もはや個人としての個人ではなくして、社会人としての個人でなければならない。そうすれば個人の意識も亦、もはや個人的意識としての個人意識ではなくて、何か社会的意識[#「社会的意識」に傍点]としての個人意識でなければならなくなる。そればかりではない、個人を主体とする代りに、却って個人を超越した何かの社会形態――階級とか身分とかその他の集団とか――を主体とするような意識も、そこでは考えられることが出来、或は考えられねばならなくなるかも知れない。意識は個人という鎖から切り離され、個人的意識[#「個人的意識」に傍点]の概念から離脱しなければならない。意識は、たとい夫が個人の意識[#「個人の意識」に傍点]であろうとも、個人的意識[#「個人的意識」に傍点]の概念によって把握されてはならない。意識は何かの意味で社会的意識[
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